21・シロチドリは見ていた

 城下町ゾーンを過ぎると、次第次第に雲が分厚くなってきた。

 外堀まで出て、堀沿いに北上してみる。

 すると、街路樹の根元を掃除している方々の姿があった。

 通りすがりに「お疲れさまです」と声をかけたところ、セッセと掃除しているご婦人は楽し気に応えてくれていた。

 一方堀の土手では……

 土手周辺をテッテー的に草刈りしている人たちの姿が。

 これらの人々がどういった組織なのかは知らないけれど、信じられないくらいに清掃が行き届いている萩の町を支えている人たちであることはたしかだ。

 ここまで歩いてきた道々のきれいさを考えると、公私いずれであれ清掃活動はもはやこの地域の誇るべき文化といってよく、それこそが後世に遺すべき世界遺産なんじゃなかろうか。

 この堀沿いにはかの田中義一の立派な像が建っていたけれど…

 たとえ歴史に名は残らずとも、道を掃除し草を刈る人々も同じくらい立派だと思う。

 で、なんで木戸孝允の像は無いの??

 外堀沿いにさらに行くと、平安橋を渡る際に触れた、北の総門にたどり着いた。

 往時の外堀はもっと幅広く、そこに石造りの橋が架かっていて、その三の丸側の橋詰めに建っていたのがこの総門。

 跡地でしかなかったところに、近年復元されたそうだ。

 横から観るとこんな感じ。

 戦災で失われたわけではなく、敗戦で壊されたわけでもなく、焼失してしまったわけでもない数々の萩城城郭構造物。

 維新後長州藩がテッテー的に解体して取り壊しさえしなければ、わざわざ後世に復元する手間も必要なかったのに……

 …と思わなくもないけれど、取り壊す必要性がさほどないにもかかわらず、言い出しっぺとして率先してキッチリきれいさっぱりお城を取り壊す長州藩と、隈なく絶え間なく地域の清掃をする現在の萩のみなさんと、相通じるものを感じるのは気のせいだろうか。

 この北の総門をくぐると、三の丸、堀内地区になる。

 再び御城下山の手ブルジョア区画だ。

 突き当たって北側を見るとすぐ先が丁字路になっており、そこで立ちはだかるように建っているのがこちら。

 旧益田家物見矢倉。

 (ちょっと寄り道

 益田氏の益田は山陰の益田に由来するそうで、もともとは大内氏配下だった益田氏は、尼子、毛利との攻防の果てに大内氏が滅亡したのち、毛利配下になったらしい。

 関ヶ原の役で毛利輝元がヘタを打ち、戦後毛利家が長州に逼塞させられる際、なんと益田氏は徳川家康からヘッドハンティングされかかったという。

 親会社が事業撤退して業務縮小を余儀なくされた超零細下請け企業の技術者が、かつての親会社のライバル企業社長から直接勧誘されているようなものである。

 ところが益田氏は、丁重に固辞したそうな。

 それを知った輝元公は大いに喜び(そんだけ優秀なヒトだったのだろう)、以後益田家を長州藩の永代家老に就かせるほどに優遇したとか。

 なんだか下町ロケットのような話のおかげで、ずっと子孫は門閥家老として藩内ハイソサエティブルジョア階級でいられた益田家。

 しかしときにはむしろ、藩内ポジションが上位であることが仇となることもある。

 幕末の頃の家老益田親施は、既得権層ブルジョア階級でありながらも、尊王攘夷派がブイブイ言わせていた当時の長州藩で、公的立場でモノが言える藩代表の1人だった。

 しかし京都の政変によって京を追われ蛤御門の変で敗れ、そして第一次長州征伐。完全に藩内サーブ権が俗論党に移ると、幕府側(薩摩側ともいう)との講和条件として、益田親施はじめ3家老は、責任を取る形で切腹を命じられる。

 家「老」という職務ではあるけれど、享年は32歳。若い。

 今の日本では、子育てのために育休をとる政治家はいても、国のために死を賭す政治家はいない。もちろんながら政治家という既得権益者が、改革を実行できるはずもない。

 (寄り道終わり

 矢倉とは本来武器庫ながら、北の総門の出入りを監視する意味もあったために物見台としての役割も果たすべく建物は高く造られ、「物見矢倉」と言われているのだそうな。

 ちなみに、午前中に歩いた平安橋の総門には児玉家の、現在は跡地しかない中の総門の橋詰めには大野毛利家の物見矢倉があったそうで、大野毛利家の物見矢倉は、大野毛利家上屋敷跡地に萩博物館を造る際に、もともとあった場所に復元されている。

 このわりと真新しい建物、歩いていると唐突にボンッとあるから、そういうことを知っていないと、それっぽく作った今出来のお店か何かなのか、史料に基づいて造られた復元建造物なのか、萩ビギナーには判別がムツカシイ……。

 もちろん歩いているときのワタシが知っているはずはなく、なんとなく気になるから撮っていただけで、まさかそのようなものとはつゆ知らず。

 ところで、益田家物見矢倉の写真に写っているオタマサは、建物を眺めているように見えて、なにやら違うモノに目を奪われているように見える。

 はて何を見ているのか?

 これだった。

 なんと千鳥格子をポストのスリットとして利用した郵便受け。

 それもそのはず、こちらは益田家物見矢倉であって、現在は……

 …個人宅。

 ちゃんと表札もかかっている。

 歴史に現在がそのままかぶさっている萩の町。 

 …はスゴイけど、いろんな土地で千鳥格子の家を眺めてきた我々ながら、ポスト利用は初めて観たかも…。

 この旧益田家物見矢倉から一直線の道を西へテケテケ行くと、今度は旧繁沢家長屋門がある。

 サイズもさることながら、出窓(?)のひと手間かけてある↓このあたりが、なにげにブルジョワチック。

 門が開いているときは内側に入れるそうながら、我々が歩いている時は固く閉ざされており、なるほど、ひとたび門を閉じれば、この建造物が堅牢な門であることだけはよくわかった。

 ここを過ぎてさらにテケテケいくとたどり着くのが、旧周布家長屋門。

 (ちょっと寄り道

 周布家は益田家の流れの家だそうだけど、周布家といえば幕末の周布政之助。

 長州藩2大政党のうち正義党の巨頭でありながら、早いうちから久坂玄瑞や高杉晋作の藩内後見的立場で頑張った上級武士だ。

 藩内政治的に責任ある立場にあるにもかかわらず、あのやりたい放題高杉晋作をはじめとするヘンスゴな若者たちの後ろ盾となって頑張り続けたのだから、ある意味この方もスゴイ人である。

 スゴイといえば、長州藩絶体絶命の危機という大事な時に獄中にいた高杉晋作を訪ねるべく、獄卒の制止を振り切って馬上のままズカズカと獄舎に押し入り、ヤケクソ気味に(意訳すると)「あとは任せた!」と高杉晋作に言葉を残して去っていったというエピソードを残している。

 彼はその頃藩内政治的ににっちもさっちもいかない立場に置かれていて、サーブ権が相手に渡ってしまうのが目に見えていたこのとき、すでに死をもって身を処すことを決めていたようだ。

 ところが藩主の意向でなかなか政治的な表舞台から退くことができずにいたため、あえて破天荒な罪を犯し、舞台からの退場を図った周布政之助。

 その後結局責任を取る形で当時政庁があった山口にて切腹するのだけれど(享年42歳)、彼が切腹して果てた地には後年彼の偉業を知る人々の手で碑が建てられ、その後公園として整備されたそうな。

 そして一帯は山口市周布町になって、周布は後世に名を残すこととなった。 

 (寄り道終わり

 周布家の長屋門は開いていたので入ってみた。

 ゆっくりお茶でも飲みたくなるたたずまい。

 しかし周布家に限らず、幕末当時の長州藩士のみなさんには、縁側でお茶を飲んでいるヒマなど1ミリも無かったことだろう…。

 この旧周布家長屋門は、我々が泊まっている萩一輪の目と鼻の先だったりする。

 時刻は14時30分。

 途中至福のランチを挟んでいるとはいえ、8時に宿を出てからかれこれ6時間。これ以上歩いて限界を超える前に、宿に戻って休憩しよう。

 宿にある自販機コーナーで、柄にもなくチューハイなどを買ってみる。

 萩といえば夏みかん。さて酎ハイのお味は??

 ん?なんだかオレンジジュース。

 これだったらよっぽど横川商店のソフトクリームのほうが夏みかんだったなぁ……。

 ところで、荷物はなるべく少なくしたいから、旅行日数分の着替えを持ってきているわけではない我々は、いつもだったら宿近隣のコインランドリーを探すところ。

 ところが有難いことに、萩一輪さんにはリーズナブルなコインランドリーも備えられていて、フロントで洗剤@100円を買いさえすればOKだ。

 宿泊客は少なそうだから洗濯機や乾燥機が混み合うこともなく、好きな時間に洗濯できるのもうれしい。

 なのでこの間に洗濯タイム。

 洗濯機や乾燥機が頑張っている間、このままダラダラしながら窓から海を見ていてもよかったのだけど、目の前の浜は名高い菊ヶ浜。眺めているだけで済ませては申し訳ない。

 というわけで、洗濯待ち時間に浜に降りてみた。

 浜には萩一輪の駐車場からも庭からも降りられるようになっている。

 夏場は海水浴場として大勢のお客さんでにぎわうという砂浜は、真冬のこの時期、沖に火山島を拝しつつも、もちろんながら……

 ヒトッコヒトリーヌ。

 第一次長州征伐のあと、幕府側に降伏する形でいったん講和した長州藩では、「幕府と共に!」の俗論党が藩政を牛耳るようになる。

 それでは長州も日本も危ういとばかり、高杉晋作らをはじめとするヘンスゴな人たちは、藩内革命を起こすに至る。

 走り出したら止まらない。

 その一環として下関で藩の軍船を奪った高杉晋作は、その船をこの菊ヶ浜に回し、連日空砲をぶっ放しては、城下の、特に藩政を牛耳っている俗論党の人々の心胆を寒からしめたのだそうな。

 その船が浮かんでいたのが、おそらくこのすぐ沖。

 本人は乗船していなかったとはいえ、下関にてさぞかし痛快だったことだろう。

 ところでこの菊ヶ浜、砂浜が美しい見事な海岸ではあるのだけれど……

 消波ブロックや砂防突堤など、なにげに人口構造物がやたらと目立っている。

 そりゃ日本海の荒波が押し寄せる海辺にあっては、巨大な波濤が立たないようにする工夫がいるのだろうことはもちろんわかる。

 でも、歴史的景観を保全することに向けているたゆまざる努力と工夫を、もう少し海の景観を保全することにも向けてくれたら……

 ……と、寄せては返す波を眺めながら思うのだった。

 とはいえ海辺の事業は、萩市じゃなくて山口県の管轄になっちゃうか…。

 公共工事でガッポリ設ける現代の俗論党こと既得権益層がウジャウジャいるに違いない。

 菊ヶ浜のシロチドリは知っている。