20・城下町散歩

 同じ景色を眺めるにしても、天気によってそのイメージはまったく変わる。

 絶好の行楽日和に水納島に日帰りでお越しになっている観光客の方々は、口を揃えて「海が綺麗ですねぇ!」「いいところですねぇ!」と称えてくださる。

 しかしその彼らが北風吹きすさぶ曇天の日にお越しになれば、感想はまったく違ったものになることだろう。

 ことほどさようにお天気はその地から受けるイメージを左右する重要な要素ながら、胃袋の具合いと脳に残る賞味の余韻もまた、目に入る風景を大きく変える力を持っている。

 豊月にて「生きててよかった」的至福のひとときを過ごしたあとともなれば、目に入るものすべてが愛おしい。

 そんな気分で歩いているうえにお天気もどんどん良くなっているから、我々にとって萩の町はもはや世界遺産級だ。< もう世界遺産です。

 豊月のすぐ近くに、酒造所があった。

 長陽福娘で有名な岩崎酒造。

 何軒かの酒造所は町中にあると聞いて驚いていたら、ほんとにこんな近いところにあったとは。

 昨夜MARUでいただいた萩の地酒6種腕試しセットにももちろん名を連ねていた。

 それがいろいろある福娘のどの品なのかはわからないけど、飲み口のいいさっぱりした味わいは食中酒にバッチリ。 

 昨夜歩いたバス通りには、醤油の醸造所もあった(撮ったのは翌日)。

 萩では有名なミヨシノ醤油。

 その代表的商品「萩醤油」は九州北部同様けっこう甘口なので、好き嫌いが分かれるのかもしれないけれど、ワタシは好き。

 明治43年創業の年季の入った建物は、萩市の景観重要建造物に指定されているのだそうだ。

 もっとも、そういったことが商売上枷になってしまうのだろうか、今も建物は残っているけれど、醤油醸造所はもっと広い土地がある場所に移転した模様。

 岩崎酒造の前の幅広い道の突き当たりに、商店街がある。

 こういった商店街は景観保存のため萩の町で許されていないのかと思いきや、町のこのあたりはあまりうるさく言われないのだろうか。

 この商店街の通りをそのまままっすぐ行くと、観光コースとして名高い「城下町」界隈になる。

 そのまま歩いていくと……

 観光客が萩の町に抱くイメージから大きくかけ離れた、かなりファンキーなファサードの建物が。

 沖縄の飲み屋街の路地裏ならいくらでもありそうながら、ここでこのエクステリアってのは相当勇気が要りそう…。

 隣の建物との境が、景観に配慮するルールが厳しくなる境界なんだろうか。

 建物はファンキーながら、店舗前の道は石畳状になっている。

 例によって一直線のその道を行くと、やってきました「城下町」。

 その角地が広場になっていて、やっぱりここも夏みかんがたわわに実っている。

 昭和天皇が皇太子の頃、すなわち大正時代の夏に萩を訪問されたそうで、その時町じゅうに溢れる香りに驚かれ、

 「この町は香水を撒いているのか?」

 と周囲の者に尋ねられた……というウソのようなホントの話が伝わっている。

 皇太子が驚かれた香りの元は、言うまでもなく夏みかん。

 暑さも手伝うのか、夏ともなると町じゅうに柑橘香が充満するんだそうだ。

 失業武士のための新産業が、皇太子をビックリさせたとなれば、萩夏みかんの祖とも言うべき小幡高政も本望だろう。

 残念ながら我々が歩いている間は、夏みかんの香りを感じることはなかった(菓子店の脇では香ったけど…)。

 観光コース的に「城下町」とされる区域は、豪商の商家がメインストリートに面して建ち並び、界隈には中・下級武士の家々が軒を並べていたそうだ。

 3筋ある通りはそれぞれメインストリート沿いにあった商家の名前が付けられており、商店街から来ると一番手前にあるのが江戸屋横丁だ。

 往時のままの町割りなので道路は車がすれ違えないほど狭いけれど(車両は一方通行)、やっぱり一直線。

 この江戸屋横丁の夏みかん広場(?)のすぐ近くにあるのが……

 ご存知木戸孝允こと桂小五郎の誕生地だ。

 屋敷がそのまま残されていて、フリーで中に入ることもできた。

 もっとも、ここは紛れもない桂小五郎の誕生地ながら、彼は和田家(藩医)の長男として生まれたわけだから、この家はすなわち和田さんのお宅ってことだ。

 和田家の小五郎君は病弱すぎて長命せずと親から諦められてしまい、和田の家は姉の婿が継ぐこととし、お向かいの桂家(藩士)の当主が跡継ぎの無いまま亡くなったのを機に、彼は7歳の頃に桂家に養子に出て桂小五郎となる。

 今の世の中のように遺伝子だDNAだ血縁だってことにはとらわれず、とにかく家名が大事だった当時は、このように生まれた家と育った家が違うというのはごくありふれたことで、おまけに桂小五郎は維新後に藩命で「木戸孝允」への改名させられたりするから、いったい誰が誰やらわけがわからなくなる。

 ちなみに和田小五郎あらため桂小五郎は7歳で末期養子に出たものの、養母もほどなく亡くなってしまったため、桂家の当主でありつつ和田宅に二十歳になるまで暮らしていたそうだ。

 この点、杉家に生まれ吉田家の養子となって家督を継ぎながらも、ずっと杉家で両親兄妹とともに暮らしていた吉田松陰と似ている。

 ともかく、長じてのちの幕末における彼の活躍は桂家に養子に出て医者を継ぐ必要が無くなったからこそで、それを考えると和田宅のお向かいさんだった桂さんが跡継ぎがないまま亡くなったことが、その後の日本を大きく左右したことになる。

 それにしても先にも触れたように、桂小五郎といえば長州藩の中でも重鎮、維新後も明治の元勲と称えられる人なのに(維新後は冴えなかったけど…)、なぜだか萩の町には公的に建てられた彼の銅像がひとつもない。 

 京都の河原町には写真を元にしたと思われる座像があるから、像を造ってはいけないという本人の遺言があるわけではないのだろう。

 萩の町には、一般には誰も知らない(※個人の感想です)田中義一なんていう元総理の像すら立派に建っているというのに、これはどういうことなんだろうか。

 ひょっとして、地元にひそかに伝わる桂小五郎「イケてない伝説」があるとか??

 なんだか地元でディスられている感もある桂小五郎誕生地をあとにし(ちゃんと誕生地にはガイドさんが常駐している模様)、雰囲気のある通りをテケテケ歩く。

 

 今オタマサが通りかかっているところは青木周弼旧宅。

 青木周弼は毛利敬親の侍医も務めた幕末屈指の蘭医だそうで、長崎ではかの有名なシーボルトに師事したという当時の最先端医療を行くヒトだそうだ。

 江戸屋横丁、なにげに病院通りだったのか??

 その彼の医療における活躍の細かいことは知らないけれど、彼のキャリアでもとりわけ重大なシゴトは、天然痘にかかってしまった10歳の高杉晋作を治療したってことだろう(※個人の感想です)。

 それは彼が早くから種痘の研究をしていたからこそなしえたわけで、高杉晋作が天然痘のために10歳でこの世を去っていたら、幕末の日本はいったいどういうことになっていただろうか。

 いや、そもそもその頃は幕「末」じゃなかったかも。

 まことに残念なことに、青木先生は幕末が沸騰して煮詰まった頃の高杉晋作の活躍を目にすることなく、文久3年(明治維新の4年前)にひと足早く亡くなっている。

 江戸屋横丁を通り抜けるとフツーの町があって、堀だか用水路だかが流れている先に、見覚えのある商店が見えた。

 あ、あそこはアレを売っている店だ!!

 アレとは……

 夏みかんソフトクリーム♪

 散歩している間に小腹が空いたときなどに、なにかほどよいご当地グルメなりスイーツでもないかいな…とリサーチしてその存在を知ったワタシ。

 「夏みかん丸漬」がいくら萩の名物と言われても、丸ごと全部は食べられないしもちおもりもするから、もっとライトなモノを探しているところにこのソフトクリーム。

 ひとつのメーカーが作っているものが広く売られているのではなくて、ほぼ店舗ごとにそれぞれ異なるオリジナルのソフトクリームが売られているようだ。

 店舗の位置と数からすると、テキトーに歩いていてもいずれかの店に出会えそうだったから「是非ともここで!」とロックオンしている店は無かった。

 ただしなかには「小」サイズも用意してくれている店もあって、それだったらオタマサにはちょうどいい……

 ……と思っていたその店が目の前に。

 横山商店。

 ワタシはさきほどのノーマルサイズ@300円、オタマサは小よりもさらに小さなミニミニ@100円をお願いしたところ、店主氏がサービスでミニミニ料金のまま小サイズの量にしてくれた。

 我々と同世代と思われる店主は、時節柄マスクを着けているけれどとってもファンキーな方で、このあたりは歩きながらソフトクリームを食べても大丈夫ですか?と彼に尋ねると、

 「大丈夫ですよ!そもそも他にヒト歩いてないもん。いやあ、もう萩の観光は全然ダメッ!!」

 と、尋ねてもいないことまで自虐的嘆き節で教えてくれた。

 たしかに、昔の景観を保っている横丁が並ぶ城下町はこのあたりじゃ屈指の散策コースだから、このへんに来るとけっこう観光客が歩いているのかな……

 …と思いきや、ここまでの写真をご覧いただければわかるとおり、観光客の数は冬場の水納島と変わらない。

 超閑散期の平日はこんなもんか…と思っていたら、ファンキー店主氏のこの嘆き節。

 それが韓国の訪日客減によるのか、新型肺炎にともなう中国の移動制限によるのか、それとも慢性的な話になっているのか、詳しいことはインタビューしなかったからわからない。

 まぁしかし山陰屈指の観光地といっていい萩でさえそうなんだから、昨年同時期に訪ねた温泉津にヒトが居なかったのも当たり前だ。

 「観光立国」政策が、それに拍車をかけているように思える……のは気のせいだろうか。

 ま、おかげで誰憚ることなく、ソフトクリームを食べながら歩いていられるんだけど。 

 ところでこの夏みかんソフトクリーム、夏みかんの酸味と渋みがほどよく、まさにオトナのスイーツって感じでとっても美味しい。

 こちらのお店のソフトクリームは夏みかん色をしているけれど、店によっては白い夏みかんソフトクリームがあったり、果肉が入っていたりするらしい。

 その他いろいろな萩の夏みかんソフトクリームを知りたい方はこちらからどうぞ(pdfファイルのサイトです)。

 ソフトクリームを食べつつ、再び横丁城下町に戻り、伊勢屋横丁を歩く。

 この伊勢屋横丁、途中からかなり長大な土塀が続く。

 なんだ?またどこかの同窓会の寄贈グランドか?

 ……と思ったら、ここは菊屋家住宅なのだった。

 住宅なのであって、住宅跡でないところに要注目だ。

 菊屋家はずーっと昔は大内氏に属する武士だったそうながら、大内氏滅亡後は武士を捨てて町人になったという。

 でもその後中国の覇者となった毛利元就の力になったりするなど毛利家とのかかわりは深かったようで、毛利輝元が萩に入るのに合わせて有力町人として萩にやってきて、城下町づくりに尽力したのだそうだ。

 いわば、昨年温泉津で知った内藤家の逆パターン。

 以後藩の御用商人となって萩のビル・ゲイツ化していくことになる菊屋家だから、その邸宅も超ド級サイズなのは当たり前。

 萩屈指の名家、名士でもあるからだろう、昭和の菊屋家当主菊屋嘉十郎氏は、昭和34年から6期連続で萩市長を務め、萩の文化財の保護に熱心に取り組んだという。

 あ、そういえば……指月城跡から彷徨いこんでしまった石彫公園で、菊屋市長のモニュメントを見たような記憶が……。

 そのモニュメントには…

萩に生まれ 萩を愛し 萩を育てた あなたを称えます

 という碑文が刻まれている。

 そんな菊屋家住宅(現役)。

 この門に備え付けられてあるポストに書かれた表札が……

 なにげに庶民派でステキ。

 もっとも、観光的菊屋家住宅はこちら側じゃなく、伊勢屋横丁を出て菊屋横丁に入るまでのあたりからメインイベントになる。

 縦長の看板は、30年ほど前に実家の両親が訪れた際の写真にも写っていたから、看板すら相当年代物と思われる。

 しかしここから続く建物は、驚くなかれ築400年超。現存する商家としては最古の部類になるという。

 ちなみに歩いてきた側を振り返るとこんな感じ。

 萩焼を売る店が並んでいる。

 この通りはさきほどの商店街から続く一直線の道で、「御成道(おなりみち)」と呼ばれている。

 藩主が公的に移動する際、「おな〜りぃ〜」と行列を作って通る道のことなのだろう。

 菊屋家は下関の伊藤家のようにその「おな〜りぃ〜」の際の本陣になったり、藩主や藩の賓客をもてなす御用宅になっていたそうな。

 入場料を払えば、藩主や賓客接待用の広い座敷や庭園も眺めることができる。

 御成道を挟んで菊屋家の向かいには、久保田家住宅という商家がある。

 江戸の後期になぜだか近江からこの地にやってきたそうなのだけど、その2代目当主の頃から酒造業も始め、明治30年まで「あらたま酒店」という造り酒屋を営んでいたそうな。

 ここに杉玉がぶら下がっていたら、まるで飛騨高山みたいだったろう。

 そんな御成道から、今度は菊屋横丁に入る。

 伊勢屋横丁側の菊屋家の塀は土塀だったのに対し、こちら側は…

 なまこ壁。

 さすが萩のビル・ゲイツ、なまこ壁が果て無く続く。

 おかげでこの道は「日本の道百選」にランクインしている。

 なまこ壁が尽きたあたりには、田中義一元総理の誕生地跡があった。

 萩出身の総理大臣となれば、誕生地も銅像もあってしかるべきなんだろうけれど、恥ずかしながらワタクシ、今回萩に来ることがなかったら一生その名を知らずに終わっていたかもしれない…。

 あ、でもタモリこと森田一義の名前の由来はこの方なんだそうな(by ブラタモリ)。

 同じ誕生地でも、全国的に著名な方といえばこちら。

 ご存知高杉晋作の生家、高杉家宅。

 高杉晋作というヒトは、こまごましたエピソードも含めて事歴だけを並べると、「ちょっと頭のおかしいヒト?」って思うくらいに突拍子もない話がてんこ盛りで、両刃でなおかつ柄の部分まで刃になっている刀のようにつかみどころ無さ過ぎの危うい感に満ちている。

 後世のんきに眺めているワタシでさえそう思うのだから、当時彼と付き合えた人たちってのは、全員変わり者だったのか、それともよほど度量の大きな人たちばかりだったのか。

 しかし松陰門下では久坂玄瑞とともに竜虎と呼ばれる2大スターだったくらいだから、若い頃から優秀なヒトではあったのだ。

 変だけど凄いヒト。

 それは吉田松陰自身もそうとしか見えないから、類友というかなんというか、彼らは出会うべくして出会っているのだろう。

 そんなヘンスゴな方々のことなど凡百の民であるワタシには容易には理解しがたいところ、それをわかりやすく噛んで含めるように一つの物語にしてくれているのが、司馬遼太郎の「世に棲む日々」。

 司馬遼太郎が描くところの幕末ものは好きな作品群のひとつではあるものの、ヘンスゴな彼らがわかりにくすぎて、これまでは長州藩士が主人公となる作品には手を出さずにいた。

 今回萩を訪ねるに際し、せっかくだからと生まれて初めて手に取ってみたところ……

 いやはや、面白い。

 そうだったのか、吉田松陰!

 なるほど、高杉晋作!

 そんなわけで、50を過ぎてようやく(あくまでも司馬遼太郎が描くところの)高杉晋作を理解できたワタシ。

 動けば雷電のごとく 発すれば風雨のごとし。

 ……から始まる名文を、死後随分経って建てられた高杉晋作顕彰碑のために揮毫したのは、高杉晋作とともに幕末の風雲真っただ中にいながらフグも食べた、フグの使者こと伊藤博文である。

 雷電のごとき活躍も、風雨のごとき離れ業も、数え上げれば切りがないけれど、ワタシが最も好きな彼のエピソードは、下関にて四ヵ国連合艦隊との和平交渉に臨んだときのこと。

 それも、最前まで藩によって入獄させられていたところを呼び出され、長州藩全権大使として行ってくれ、と藩主自らに要請されてのことである。

 圧倒的に敗者でありながらも、降伏ではなく講和であると主張し、異国側が求める賠償金も、払う義務があるのは幕府である、と突っ撥ねるところまでなら、誰だってそのようにふるまえるかもしれない。

 しかし話がまとまりかけていた最後の最後に、講和の条件としてイギリス側が持ち出してきた「下関近くの彦島の所有権の譲渡」要請。

 もしその場にいたのが現在の内閣閣僚だったなら、狼狽えつつ官僚に代弁させていたことだろう。

 しかるに高杉晋作は慌てず騒がず、その場にて突如、古事記・日本書紀で述べられるところの国生み神話を、(日本語で)朗々と暗誦し始めたのだった。

 一応通訳としてそばにいた伊藤博文をはじめ、長州側の誰もが「コイツ……頭がいかれたか??」と思ったくらいだそうだから、イギリス側もあっけに取られていたことだろう。

 しかし高杉晋作、大いにマジメである。

 彼の意図としては、そうやって国生みから始まるこの日本国の歴史を2日かかろうが3日かかろうが滔々と語り聞かせ、その歴史あるゆえに、日本国の領土は島ひとつといえども異国に分譲するわけにはいかぬのだ、というオチにもっていくつもりだったらしい。

 幸いなことにそのオチにたどり着く前にイギリス側のほうが根負けし、いわば提督が折れる形で彦島分譲の件は沙汰止みとなった……。

 ホント、維新の前年に、それも病気で死んでしまうだなんて、日本にとって大きな大きな損失だったなぁ……。

 …高杉ラブな白石正一郎にとっても。 

 菊屋横丁を歩き切ると、伊勢屋横丁との間の土地が広場になっていた。

 そこに建っているのは……

 チョンマゲ姿も凛々しい高杉晋作像。

 まぁしかし彼があの世からこの像を目にすれば

 「チョンマゲしてた頃の像はないだろ!」

 と苦笑いしているかもしれない。

 そして青空に、紅梅が映える。