1月21日

28・飛騨の里

 飛騨の里というのは、簡単にいうと琉球村みたいなものである。
 飛騨地方のかつての里を再現したテーマパークのようなものだ。
 が、そこに建つ家々には、かつて人が住んでいた。この飛騨の里に移築される前までは…。
 飛騨の里にある家々は、飛騨地方の各地のダム建設によって水没の憂き目に遭った集落の建物なのだ。寄贈という形で飛騨民俗村管理事務所が引き取り、松倉山の麓に一堂に会しているわけである。
 松倉山といえば、かつて飛騨の主だった三木氏が城を築いていたところである。特に飛騨に何も残さず、この松倉城で金森長近に敗れ去った三木自綱ではあったが、麓に里を作れるだけの余地を残していたことで、少しは貢献したことになるのかもしれない。

 ところで、ここにはうちの奥さんが行きたがっていた。
 その理由は……

 池に白鳥がいる!!

 凍った池の上を2羽の白鳥がペタペタ歩いていたのがかわいかった……
 ネットで調べていると、そんな余計なことを旅行記に書いておられる方がいたのである。
 見せたくはなかったが見せると、案の定うちの奥さんのツボにはまってしまった。
 もう…いいかげんにしてくれよ……。
 これがテディベアビレッジなんぞであればそういうところだったけど、ま、飛騨の里なら行ってもいいか……。

 飛騨の里がある松倉山は、高山市街地から西へ少し離れたところにある。駅から微妙な距離でもある。直線距離なら駅から岩田館までの距離と変わらない。
 歩いて行ってみようか…。
 一時はそう考えた。でも白鳥のためにそのあと疲労困憊するのは、東北旅行で懲りている。
 というわけで、駅前からバスで行くことにした。

 いやあ、バスにしてよかった。
 駅に向かう途中、船坂酒造店で枡酒を一杯ひっかけていたのはこの日この朝のこと。
 猛烈な雪のせいで道という道が白銀の世界。そんななか、緩やかとはいえ山に向かう坂道を歩き続けていたら…。
 本当に八甲田山になってしまうところだった。

 駅から10分ほどで飛騨の里についた。
 平日の午前中、しかもけっこうな雪とあって、大通りの売店も臨時休業しているところがあるほどに閑散としている。
 バスの切符を買う際に往復券と併せて飛騨の里の入場料も払っていたので、そのままゲートイン。
 いきなり飛騨の里に入った。

 いやはや、別世界。
 飛騨といっても昔から都会だった高山には赤影さんの気配すらないけど、こんな世界だったら、あの木々の上に白い大きな凧が空高く飛んでいてもおかしくない。

 さてさて、目当ての白鳥は??
 この全面的に凍った池に白鳥なんているのだろうか?
 そのとき、
 「いた!」
 白鳥を見つけてそんなに声を張り上げる人が他にいるだろうか、というくらいの声でうちの奥さんが叫んだ。
 ホントだ、1羽いる…。
 でも、柵に囲われた中にいるようだった。
 そのあたりだけ池の水が凍らないようにしてある。
 白鳥の柵に近づける道はあるのだろう。しかし積雪のせいでとてもじゃないけど近づけそうもなかった……。

 白鳥はあきらめ、家々をまわってみることにした。
 さすがに通路は除雪されて歩けるようになっていたものの、脇道への侵入は雪が許してくれない。最初に1、2軒まわってみて、思いのほか場内にたくさんある旧民家をすべてまわるのは不可能であることに気がついた。全部じっくり回ると1日がかりになるだろう。さすがにそういうわけにはいかない。
 仕方がないので、入り口でもらったパンフレットに記されている「国指定重要文化財」の4軒に絞り、まわってみることにした。
 なかでも壮観だったのがこの若山家である。

 パンフレットの解説によると、

 荘川造りといわれる入母屋造りから白川村の合掌造りに移行する構造を残しており、合掌造りの発展を残している唯一の建物です

 ということらしい。
 なんだかよくわからない。とにかく合掌造りである。豪雪に耐えるためにはこんな屋根にせざるを得なかったのだろう。
 合掌造りのおうちは白川郷の映像などで見る機会はちょくちょくあったけど、内側から屋根を見たのは初めてだった。
 内側はこんなふうになっていた。

 これを組み立てるのはもちろんのこと、維持するのもなみなみならぬ努力が必要だろうなぁ……。考えただけで気が遠くなる。
 町家に匠の技があるのなら、これらの家には農家の迫力があるといえよう。
 そう、里の家は当然ながら農家の家だ。
 一口に農家といってもピンからキリまであって、こういうテーマパークに移築されるほどの家ともなれば相当の豪農であろう。なかでも、代々名主を務めたという旧田口家は、大きな集会があるたびに人が集まるため部屋数が多い。囲炉裏部屋が2つも隣接している。

 思わずつぶやいた。
 住んでみたい……。
 江戸時代の農家というと、学校の歴史の時間で習うイメージでは、搾取される一方の哀れな存在って感じなのに、この家にしろ他の家にしろ、部屋は広くて囲炉裏があって、縁側もあって土間もある。まるっきり僕の理想とする家ではないか。江戸時代の(天領の)農家は、居住空間に関する限り、圧倒的に今のうちらの生活よりも満たされている……。

 ときおり縁側で休憩したりしてみた。
 季節ごとにいろんな草花や紅葉が楽しめるのだろう。今はひさし越しに見る雪景色が美しい。
 ここでお茶でも飲んだらさぞかし気分がいいだろうなぁ…。

 パンフレットによると、各家々では民芸品製作の実演がある(こともある)らしいが、こんな平日のこんな早い時間にやっているわけもなく、想像で楽しむしかなかった。
 ただ、順路終了間際の工房ゾーンに並ぶ一軒で、一位一刀彫の実演コーナーがあった。一位というのはイチイの木のことで、飛騨の銘木である。
 名も知らぬ作家が、彫刻刀を使い、素早く造形していた。
 これほどまでの技術を身につけるまでに、手が血だらけになることも一度や二度じゃなかったろう。素早く繰り出す一刀一刀は努力の結晶だ。
 一位一刀彫の最近の流行なのかなんなのか、そこかしこで目にするのがカワセミをモチーフにした作品。それって、モチーフが流行っているのではなくて、同じ作家の作品を見ていたってことなのかな?
 聞くところによると、一位一刀彫の作家は市内に100人ばかりいるそうだが、販売を自らの店で独自に行っている作家は数えるほどなのだという。技術を身につける道が一朝一夕ではないのと同じく、売るってこともまた一朝一夕ではいかないのだ。手に職仕事の難しいところである。

 そういった技術は、人さえいれば世に残る。しかし、建物や地域、そしてそこでの暮らしというものは、たとえ住んでいた人たちが世に残ろうとも、無くなってしまえばそれっきりだ。
 これほどまでに大事にされている建物のふるさとが、いったいどれくらいダムの底に沈んでしまったのだろうか。ダムを作ることによって失われた歴史や文化を補って余りあるほどに、ダムの恩恵があったことを祈ってやまない。
 大事にされて長く保存されている町のすぐ近くに、失われてしまった里が復元されているというのがなんだか切ない。今に生きる高山の町並みには、土地の霊がその字にふさわしくないくらいにいきいきとしている気がしたけれど、かつて人が暮らしていたと思えば思うほど、この飛騨の里は地霊・家霊の鎮魂の碑に見えた。
 すべてを覆い尽くす雪が、そう見させているのかもしれない。

 バスの時間が微妙だった。
 本部循環バス65番66番と同じく、このあたりのバスもそうそう本数があるわけではない。次を逃すと町に戻るのが随分遅くなってしまう。
 バス停に向かった。
 この季節でも週末ならもう少し賑わっているのだろう。しかしこの日は平日。バス停沿いに並ぶ商店も何もかもがひっそりと静まり返っていた。そんなバス停にご婦人が一人。
 まだ十数分ほどあるので傍らのベンチに座ってバスを待っていると、そのご婦人が突然声をかけてきた。
 「高山に行くの?」
 はい。そうですが…
 「あのバス高山行きよ」
 へ?
 「この前の便が雪で遅れて今着いているのよ」
 見れば、バスがこちらに到着しようとしていた。
 なるほど。
 教えてもらわなければ乗り過ごしてしまうところだった。こんなところに、この土地の人たちの優しさがふとにじむ。ご婦人には、高山全体に対してお礼する気持ちで、丁重にお礼をしておいた。

 駅前に戻り、プラプラ歩いて適当に入った店で牛玉焼や牛串、そしてビール。
 再びプラプラして、飛騨国分寺へ。
 8世紀、仏教にとりつかれた聖武天皇が全国に建立しまくった国分寺のひとつである。
 今に残る本堂や三重塔は、もっと時代が下ってから再建されたもの。創建時は七重の塔だったというから、ようするにその後寂れたということなのだろう。
 寺は創建時に比べて寂れても、ここに祀られている匠の神様ともいうべき木鶴大明神の座像は、今でも匠たちから慕われているらしい。


大銀杏                    三重塔

 この境内に、樹齢1200年以上といわれる大銀杏がある。
 つまり寺建立の頃に植えられた木ということになる。
 なにやら創建時に銀杏にまつわる悲しい伝説もあるらしいが、1200年も生きていれば、飛騨地方の喜びも悲しみも、大銀杏はずーっと見つめてきたことだろう。もちろん、ダムに沈んだ里のことも……。
 大銀杏の根の近くに祀られているお地蔵様のお顔は、すべてを知っているかのように優しく微笑んでいた。