写真・文/植田正恵

178.激震!水納丸

月刊アクアネット2018年3月号

 昨年12月、年も押し詰まった頃、島内に水納島史上最大級の激震が走った。
 諸々の事情により、2月から連絡船が本島側の港を母港にする運びとなったのだ。

 潮位を見計らって島に乗り入れていた木造船時代からずっ連絡船の母港は水納島だったから、誰も経験したことがない大変動である。

  これまでは始発前や最終便後には、出荷する野菜や牛を載せるのにも、到着した資材や肥料を下ろすのにも、時間的にはたっぷり余裕があった。

 ところが本島側始発ということになると、朝も夕も島に到着した連絡船はすぐに本島へ帰ってしまうため、連絡船の島での滞在時間がたった15分になってしまい、忙しないこと甚だしい。

 でもそんなことは、実はまったく些細なことでしかなかった。
 連絡船の母港変更による最大の変化は、船員さんたちの引っ越しだ。

 水納島が母港だったこれまでは、連絡船の船員さんたちは、島出身の方、島外出身の方すべて、水納島で暮らしていた。
 しかし本島を母港にするとなると当然ながら島に住んではいられず、好むと好まざるとにかかわらず、今後は本島で暮らすことになる。

 ということが最終的に決定したのが年末のことで、船員さんたちは年明け早々から本島で住居を確保し、引越しの準備をしなければならなくなった。
 人数的にはたった3名のこととはいえ、島の人口比にすると一気に10パーセントもの人口流出である。それも働き盛りの男性だから、島内の雑事にかかわる戦力の大幅ダウンは避けられない。 

  今回島を出ることになった3名の船員さんのうち島外出身のお2人は、島での暮らしもかれこれ約30年。
 世界の海を股にかけてきた彼らのキャリアで最長の在職期間だから、現在までの半生において、最も長く慣れ親しんできた土地から去ることになる。

  ヒマな時には海に繰り出し、獲物をゲットしてはみんなで飲んで…という離島生活を楽しんできた彼らも、島に親族がいるわけではないから、ひとたび自分の家という拠点を失えば、よほどのことがない限り島で夜を過ごすということもなくなることだろう。
 中身は海幸の山だった大容量の冷凍庫も、すでに引き取り手が決まっているという話だった。

  旧我が家はいつでもウェルカム状態でいられるほどに住環境がよかったから、(もっぱら我々夫婦が恩恵に与る形で)飲む機会が多かった機関長と、引っ越し前に別れの盃的に久しぶりに一献、ということになった。

  もう還暦10秒前というのに、いついかなるときも現在進行形で日々を楽しんでいる機関長。
 けれどさすがにその夜はいろいろと思い出話に花が咲いた。

 その酒席もお開きが近づいた頃になって、ポツリと語った機関長の一言が忘れられない。
 いわく、

 「水納島って最高だよな」。

 すでに定年後を見越して早いうちから本島に家を持っていた彼だから、本島が母港になればむしろ経済的には楽になるはず。
 そんな彼がそう言うのだから、お金や便利さにはけっして代えられない魅力が島にはあるのだ。

  突然の人口流出により限界集落の道まっしぐらになってしまった島ではあるけれど、去りゆく人の言葉にあらためて勇気づけられ、私もまだまだがんばろう、と決意を新たにしたのだった。