写真・文/植田正恵

45.説明しないわけ
月刊アクアネット2007年2月号

 昨年末、水納小中学校で、講師を招いての本格的な注連縄作りの講習会があった。
 講師は、過去に水納校に赴任されていたこともある元教師の方だった。
 挨拶が終わり、さあ注連縄の作り方の説明、という段になって驚いた。元教師というから具体的な説明を言葉巧みにしてくれるのかと思いきや、これから作ろうとする注連縄を手にし「こんなこんなして作ります」という、単なる身振り手振りだけだったのだ。それじゃあそのあたりにいるおじいと変わらない…。

 水納島には三線名人のおじいがいる。名人だが、このおじいのところに三線を習いに行っても、いきなり弾いて歌って、はい、やりなさい、である。説明も何もなく、見て聞いて覚えなさいというわけだ。ある程度三線を知っていて、さらに上達をしたい、という人にとっては通用するけれど、まったくの素人だったら、いい曲を聴けたというだけで、結局何もわからないままということになる。

 また、水納島に引っ越してきた当初、島での共同作業や行事に参加するたびに、いったいなんのために、何をしたらいいのか、という説明がまったくないのに驚かされた。集合時間に集まると同時に、みんながそれぞれ、自分の仕事を始めるのである。そこには私の入る余地などないような気がして、とても寂しい思いをしたものだった。

 ところがそれから何年も経つと、どうも基本的にみんな説明するのが苦手なのだ、ということがわかってきた。
 どうやらこれは水納島だけに限らず、沖縄県民全般に言えることのようなのだが、自分が知っていることを他者に説明することがとにかく苦手なのである。みんな器用だから理解し習得する能力にはとても長けているのとは逆に、それを相手が理解しやすいように説明する、つまりエデュケーションを行う力は民俗的に発達していない。

 そのため、道順を尋ねられ、右左で説明することがどうしてもできず、地図も書けず、結局「ついてきなさい」ということになることもしばしばだ。
 皆が当然のように知っているはずの物事について説明することが苦手なのである。
 場合によっては、それを他者が知らないということに思い至らないため、説明する必要などまったく感じていないこともある。
 だからこそ、何かの仕事をするにもその説明はないし、説明していないくせにしくじると怒ったりすることもあるわけだ。

 そう思い至ってからは、島の行事や作業に出るといろいろなことが見えてくるようになった。当初は「こんな作業に小さい子供を連れてきて…」と思っていたものだが、子供のころから人がやっていることを見聞きしているからこそ、何をすればいいのかが自然にわかるのだということに遅まきながら気がついたりもした。

 すっかり沖縄観光がメジャーとなった今でも、昔ながらの民宿のなかには、泊り客に宿の設備や食堂の場所、時間などをいちいち説明しないところもまだまだ残っている。
 初めてのお客様にとっては不便このうえないかもしれないけれど、宿について流暢に事細かく説明する沖縄の宿なんて、まったく沖縄らしくない。説明のなさを不親切と捉えて不服をたれるようでは、まだまだ真の沖縄ファンとはいえないのである。