ハワイ紀行

〜またの名を暴飲暴食日記〜

12月12日(日)〜14日(火)

隠居老人の生活

 やはり疲れていたのだろうか。翌12日はなんだか眠い一日だった。しかし父ちゃんは、我々夫婦がまだ夢の中だった早朝、元気よく仕事に出ていった。タクシードライバーの朝は早い。

 12日、13日の両日はなんの予定もない平穏な日々だ。日の高いうちに老犬ムサシの散歩に行ったり、近所の散歩に行ったりして、隠居老人の生活を楽しんだ。

 旅行前はそれほど気にならなかったのだが、今回散歩して気づいたことがある。最近、庭もしくは家のそばの大きな木(このあたりだったらたいてい欅)の幹や枝をうち払っている家が多いのだ。自分の庭ならまだしも、街路の木々の葉っぱが自分の家のベランダや庭に落ちるからといって、行政に木々を断ち切らせてさえいる。それがたとえ地域の人々が愛でていた老木であっても、だ。

 これらほとんどが改築している家で、世帯主が代わっている。世代交代の前ならまったく厭うことのなかった枯れ葉の掃き掃除、というものを、今の人たちはかたくなに拒絶しているのだ。これらの人々は、日常の所作のなかで季節の移ろい変わりを感じる、ということがないのだろう。最近は共働きが多いし。

 昔ならそういうことが煩わしい人は、都会に出ていって環境を変えたのに、最近は自分は居ながらにして、身の回りのものを拒絶し、どんどん変えていく。よその家の猫が自分の家の屋根に登っている、ということすら許せない人も増えているらしい。それがいやならあんたが出ていけ、と私は言いたい。都市生活不適格者がいるのと同様、郊外生活不適格者もいるのである。

 かくして、日本では、老子のお弟子さんたちは丸坊主にされていく。

 仏子ニュータウンの裏側の、入間川の土手は素晴らしい桜並木だった。もちろん冬のこの時期に花が咲いていたわけではないが、並木道を歩くだけで、春のすばらしさは容易に想像できた。満開の時期に是非訪れてみたいが、それには職替えが必要だ。

 そのまま散歩を続け、うちの奥さんが通っていた小学校にやってきた。このご時世では、私が一人で歩いているとたちまち警官が来てしまうかもしれない。その点夫婦でいると安心だ。入学当時身長1mだったうちの奥さんは、ここまで歩いて通っていたという。それから25年たっても47センチしか伸びなかったんだねぇ。

 昼休みだったのか、学校には児童があふれていた。小学校といえばこういう光景が普通なのだろう。しかし児童生徒合わせて4人しかいない水納小中学校を見慣れていると、なんだか異様な光景に見える。これだけの子供たちをたいして広くもない敷地内に入れている、というのは、冷静になって考えたら、本当は異常なんじゃないかなぁ。みんな当たり前だ、と思いこんでいるだけじゃないの?水納島に住むようになるまでは考えたこともなかったけれど。

 平穏無事な二日間は何事もなく過ぎていった。早くも体は寒さを拒絶し、暖かな日々を恋しく思うようになっていた。

ケンタロー

 明けて14日。
 この日はかねてから約束をしていたとおり、ケンタローと銀座で寿司を食うことになっていた。我々は明日の飛行機で沖縄に帰る予定で、今日出かけたあとはもう埼玉の実家には戻ってこない。来たとき同様、今日も家にいるのは老犬ムサシだけだったが、彼はさびしそうな目をして我々を見送ってくれた。この次会うまで元気でいろよ。

 銀座で寿司なんていうとちょっとナマイキだ。が、新橋側にある博品館という建物内に、ケンタローの実家がよく利用するという店があるのだ。

 実はこの年の1月にもケンタローに連れてきてもらい、なんと彼にごちそうしてもらったのである。しかしその時私は人に言うには憚られる病気にかかっていて、その治療薬で完全にラリッていたため(ここで読者はいったいなんの病気か、と詮索してはいけない。念のために言っておくが、けっして性病ではない)、寿司を味わうどころじゃなく、満足に食べることすらできなかったのであった。最後にケンタローおすすめのサケ巻きが出された時も、

 「これおいしいんですよぉ。まぁ食ってくださいよ」

 と鶴瓶のような顔でニコニコ言われたのに、もう私は一粒の飯も受け付けられない状態になってしまっていた。全快したあと、その時のサケ巻きを食えなかったことが悔しくて悔しくて、しばらくは夜も寝られなかったほどだ。
 このため今回はケンタローへのお返しであると同時に、私のリターンマッチでもあったのだ。

 この日は火曜日だが、平日に我々に合わせて遊べるからといって、彼が現在プータローである、と勘違いしてはいけない。10月にハワイから帰った彼が、おみやげを持ってこの前の冬にバイトしていた会社に行くと、
 「いやあ〜今忙しくてねぇ〜。君、明日から来てくんない?」
 と言われ、そのまま働いているというのである。深刻な就職難の今、こんな会社があろうとは奇跡的だ。さいわいシフト制で平日にも休めるので、彼はこうして我々に付き合ってくれている、というわけだ。

 前回同様ランチタイムに行こうか、と思っていたのだが、ケンタローが4時頃にしましょう、と言うので、3時に池袋で待ち合わせることにした。なぜ池袋かというと、彼は横浜から愛車パルサーで来るからだ。池袋で拾ってもらって一緒に銀座まで行った方が楽だもの。少なくとも我々は。

 それにしても4時なんて中途半端な時間に寿司屋が開いているのか?という当然の疑問を彼に問うと、

 「大丈夫ですよ。食えるって」と、電話の向こうの彼は自信満々だった。まあ、彼に一日の長があるのだからここは従うことにしよう。

 池袋でケンタローと落ち合う前に、現像に出していた写真を受け取りに行った。頻繁にカメラを出してパチパチ撮るのはみっともない、なんて旅行中は思っていたのに、こうして現像からあがってきた写真を見ると、あれも撮っとけばよかった、これも撮っとけばよかった、と悔やまれる。いつものことだけど。

 東急ハンズの入り口で待ち合わせていた。去年通り魔殺人があったところだ。きっとこういう人混みには狂気が渦巻いているのだろう。だから待ち合わせしているからといってめったやたらにキョロキョロと人を見ていられない。目があっただけで刺されるかもしれないのだから。

 しかしそんな我々の戦慄をよそに、通り魔なんかパラレルワールドの出来事、という平和な顔をしてケンタローが現れた。

 ここからは予定どおり彼の愛車パルサーで銀座まで向かう。
 2年続けて半年間きちんと「いなかー」だったくせに、ケンタローは都内の地理にはめっぽう明るい。おのぼりさん状態の我々夫婦は彼のガイドに合わせ、キョロキョロしながら都心を見物した。

銀座の寿司の物語

 やや混んでいたが4時過ぎには銀座に着いた。
 彼は駐車場にも精通しているから、停める場所を求めて迷うこともなかった。車を降りた途端、胃はにわかに臨戦状態に入った。なにしろ我々はこれに合わせて10時頃に早お昼を済ませて以来、なにも食っていないのだ。リターンマッチにかける気合いである。

 寿司を食いに行くにしては場違いなおもちゃ屋を通り抜け、エレベーターに乗って5階へ。もう生ビールの味がジワッとのどに広がり、酢飯の香りが口じゅうに満ち満ちているような錯覚を覚えつつエレベーターを降りた。さあ、寿司だ!!

 ところが眼前には、

「準備中」

 の文字が虚しく玄関に掲げられているではないか。お〜い、ケンタロォォォォ……。

 今にも寿司が入ってくるか、と待ち構えていた私の胃は、接続不良の波動エンジンのようにギュウゥゥゥゥゥゥゥンンンンと音を立ててしぼみ、幻の生ビールで潤されていた喉はあっという間に砂漠に変わった。
 うちの奥さんなどは力無く崩れ落ち、ヘナヘナ状態で恨めしげにケンタローを見つめている。

 あれ、おかしいなぁ、とケンタローは首を傾げながら、いったい何時から開くのか調べようとしたが、開店時間を告げる案内はどこにもなかった。
 エレベーター内やビルの表にある看板にも店名と電話番号だけしか書いていない。ケンタローがその番号に電話したが、真っ暗だった店内にはやはり人はいないようで電話には誰も出なかった。

 はっきり予想されていた最悪の事態になって、もうケンタローは切腹するしかないか、という崖っぷちだった。が、この近くに系列店があるはずだから、そこに行ってみましょう、と往生際が悪い。もっとも完全に寿司待ち状態だった以上、今さら他に鞍替えはできないので、我々も従うことにした。

 ケンタローの言うとおり、ほどなく別店舗にたどり着いた。
 ただしここも準備中。やっぱり寿司屋なんだから5時とか6時からなんだよ。そんな話をしていると、準備中と書かれた店に入っていく人がいた。スタッフだ。すかさずうちの奥さんが訊ねると、案の定5時からだという。休みだったのではなく、とりあえず時間が来れば店は開く、ということがわかったので人心は穏やかになり、ケンタローの弾劾裁判開廷は無期延期された。

 時計を見たらまだ4時半だった。仕方ないので時間までいわゆる「銀ブラ」することにした。

頑張る人々

 銀座はやっぱり大人の街だ。
 池袋なんかと比べたら別の国か、と思えるほどである。すれ違う人のほとんどがスーツやコート姿。そんな街で真っ赤な上着を着ているのは、私とサンタさんくらいだった。

 あてもなく歩いていると、本屋があったので入った。月刊ダイバーの1月号を見たかったのだ。というのも、ミスター杉森がオクマビーチ近辺を取材した記事が載っている、と聞いていたからだ。

 やはりタイアップがあるとこうも違うのか、というくらいにページが割かれてあった。彼の海中写真が見事なのは以前から知っていたが、陸上の写真を見て驚いた。こんなにうまかったのか。みんな頑張っているんだなぁ。

 隣ではケンタローがダイビングワールドを手に取り、「これ私です」と言ってとある広告ページの白黒の集合写真を指さしている。言われてみると、たしかに30人くらいの中に彼がいた。そうか、彼も頑張っていたんだっけなぁ。

リターンマッチ

 ほどよい時間になったので、またエレベーターに乗って5階に行くと、5時をほんの少し過ぎただけだったのに、件の寿司屋はすでに大勢の客でにぎわっていた。

 沖縄にはまっとうな寿司屋がほとんどなく、数少ない寿司屋にもめったに入ることはないから、こんなところに来ると我々はついソワソワしてしまう。カウンターに座ったあと、そんな我々をフォローするかのように、慣れた様子でケンタローが頼んでくれた。

 前回同様、最初にお刺身や焼き魚を適当に見繕ってもらった。
 こういうところでおまかせ、というと、板さんがいろいろおもしろいのを出してくれる。屋久島からの首折れ鯖、とか福島の目光りとか、味はもちろんのこと、聞き慣れない地方名がどんどん出てくるのも楽しかった。いつの間にか自分たちが沖縄でダイビングをしている、なんて話もしていて、魚たちの話でけっこう盛り上がった。

 うちの奥さんといえば、おまかせ、と言っているのにもかかわらず、やれ生ガキが食いたいだの、やれ白子が食いたいだの、いちいち注文するのだ。だったら最初から頼め、と言ったら板さんたちにもウケていた。

 にぎりもおまかせにすると、最初はどんどん珍しいのが出てきて、めったに食えないものだから大いに楽しんだ。一口で食うのがもったいないくらいだ。
 そうやって出されるままにどんどん食っていたら、締めの軍艦巻きが出てきた。ウニもイクラもじゅわぁぁぁぁぁと口に広がった。まさに飽食日本、シアワセのひとときである。

 さあいよいよ、例のサケ巻きだ。
 この店のオリジナル商品でもあるこの巻きずしは彩りも美しく、最後を飾る一品としては申し分ない。焼酎に突入している現在、アルコールのせいで満腹中枢は破壊されてしまっているから、すでに相当食っているにもかかわらず舌も胃もこの一品を待ちこがれていた。出されてすぐに一つつかみ、思い切りよくアムッと一口で食った。

 いや〜これがうまいのなんの。
 これを目の前にして白旗を揚げていたかつての自分が信じられない。その場で死すとも食うべきものである。今から過去にさかのぼって、己に喝を入れに行きたいくらいにうまかった。

 もう思い残すことはない。いい加減満腹になったのであがり一丁を飲み、おあいそを頼んだ。出てきた金額に、私はまたしても白旗を掲げた。

1900年代最後の贅沢

 小さなケーキ屋でコーヒーを飲んだあと(よしゃあいいのにケーキまで食ってしまった)、ケンタローにホテルまで送ってもらった。京急高輪ホテルだ。

 明日の飛行機は、水納島にもその日のうちにたどり着くつもりでいたので、10時30分発だ。それだったらなんとか水納丸の最終便に間に合うだろう(このあたりのことは、シーズン中お越しくださるお客さんたちも頭を悩ませている)。その飛行機に乗るには、埼玉の実家からだと間違いなくラッシュアワーにはまりこむことになる。2週間に渡る旅行の最後の最後にきてラッシュに巻き込まれる、なんてのはなんとしても避けたかったので、もう一泊シティホテルで泊まることにしたのだ。

 普段の我々からすれば問答無用の贅沢だが、1900年代も今年で終わりである。新ミレニアムに向け、今1000年紀最後の贅沢をしてしまうことにしよう。こうやって話を大きくすれば、たかだか一泊のホテル代くらい大したことはない。実際、池袋の旅行社で買ったホテル宿泊クーポン券は、思ったほど高くはなかった。

 ケンタローと今1000年紀最後の別れを済ませ(大げさか)、部屋に入った。宿泊費は断然サンシャインプリンスホテルよりも安いのに、部屋もベッドも圧倒的に広かった。板橋区の夜景よりも、広い部屋のほうがいい。

 クーポン券には1階のレストランでコーヒーを飲める券も入っていたので、人心地つけたあと飲みに行くことにした。クーポン券を無駄にするな、である。

 レストランにはピアノ曲が流れていた。生演奏のようである。しかし奏者がいなかった。かってにピアノの鍵盤が下がり、音が出ているのである。

 と言ったって今さらこんなものを見て驚く人もいないよなぁ……と思ったら目の前にいた。とっても不思議そうな顔をしてうちの奥さんは固まっていた。

 さて、いよいよ明日は水納島に帰る日だ。
 係留したままの船は無事だろうか。チャボたちは元気だろうか。畑の野菜は持ちこたえているだろうか。家の雨漏りは大丈夫だったろうか。
 沖縄に来るお客さんたちとは逆に、沖縄に帰る我々はつまり現実に帰るわけで、様々な不安材料が津波のごとく押し寄せてきた。けれど、だめだったらだめでまあいいか、とその津波を軽やかなサーフィンで乗り越え、心地よいベッドに埋まることにした。

12月15日(水)へ