18・沖 泊

 

 話は温泉津2日目の朝に遡る。

 早朝の内湯とステキな朝食を堪能したあと、温泉津の町をあらためて散歩することにした。 

 前日とは打って変わって朝から雨が降るあいにくの天気だったけれど、出かける頃には小止みになり、念のために宿にお借りした傘は、結局一度も開くことなく済んだ程度にはお天気はもってくれていた。

 宿を出て、テケテケ歩いて温泉街を抜け、昨日訪れた漁港を過ぎ、海沿いの道をさらに先へ行く。

 静かな入り江を通り過ぎたところに現れるのがここ。

 ウカツに通れば湯婆婆がいる温泉街に迷い込んでしまいそうなトンネルが、不気味に口を開けていた。

 目的地は、このトンネルの先にあるらしい。

 トンネルを抜けると、そこは……

 小さな港だった。

 まさに天然の良港で、盲腸のように海がシュッと陸地に突き出ているような小さな入り江だ。

 同じ場所から沖側を見るとこんな感じ。

 天然の良港のうえに、波が押し入ってくる唯一の進路に防波堤が拵えてあるのだから、まさに鉄壁。

 ここは沖泊(おきどまり)という港だ。

 石見銀山は鎌倉時代に銀が産出され始めたものの、当時の技術では採掘の限界を迎えた頃に一度は閉山したらしい。

 その後戦国時代初期の西国の雄・大内氏が舶来技術によって銀山として復活させ、再び銀が産出されるようになったそうだ。

 しかし戦国の世のこと、金の生る木ならぬ銀の生る山を周囲の他勢力が放っておくはずはない。

 川中島の戦いといえばかなり有名だ。
 とはいえ、信玄と謙信は何を巡ってかの地で5度も激戦を繰り返していたのか、結局のところなんだかよくわからない。

 それに対して石見銀山を巡る攻防となれば、目的はただひとつ!!ってことは小学生でもわかる。

 ただし目的がわかりやすいからこそ、権謀術数渦巻くドラマに満ち溢れているともいえる。

 この石見銀山をめぐる山陰地方の攻防は、NHK大河ドラマ「毛利元就」でも語られていたはず(記憶にない…)。

 NHK大河ドラマ「毛利元就」といえば、尼子経久役の緒形拳が素晴らしかった。

 たしか病気のため降板した萬屋錦之介の代役としてのキャスティングだったはずだけれど、個人的には緒形拳で正解!的に素晴らしく、完全に三田寛子の旦那を食っていた気がするほどにインパクト大だった。


NHK大河ドラマ「毛利元就」より

 尼子経久@緒形拳を知らない、という方はこちらからどうぞ。

 石見銀山争奪戦の勝利はすなわち、中国地方の覇者の道まっしぐらを意味する。

 大内、尼子、毛利の争いという意味では最終的に勝利を得た三田寛子旦那改め毛利元就は、石見銀山を勢力下とし、銀の生産から輸送、積み出しまでを厳重に管理するようになった。

 毛利元就の時代に銀の積み出し港として発展していったのが、この沖泊だ。

 石見銀山から四方八方に伸びる銀流通路「銀山街道」のひとつである温泉津沖泊道を通り、銀がドシドシこの港に運び込まれては船に積み込まれていたそうな。

 温泉津湾の港のほうが面積的には広く、当時でも50艘もの船を係留させることができたそうなのだけど、面積では温泉津湾の10分の1でしかないここ沖泊には、なんと同サイズの船を70艘も停泊させることができたという。

 入り江の最奥まで深い水深、そして停泊させやすい沿岸の地形のなせるワザなのだろう。

 地勢上重要拠点である北側の櫛島には、すでに鎌倉時代から対元寇用防塁として砦が築かれていたそうで、その後尼子方の温泉氏が拠点としていたらしい。

 毛利元就の時代になると、最重要拠点でもあるここ沖泊の防衛・管理&日本海側毛利水軍の根拠地整備のために、毛利元就は櫛山城を改修、そして対岸に鵜丸城を築くなど、次々に環境整備を施したという。


Googleマップより

 まさに鉄壁の防御陣。

 ちなみにこの温泉津・沖泊の管理運営責任者として奉行に任命されたのが内藤内蔵丞というヒトで、その内藤氏のご子孫は今も温泉津にお住まいなのだそうだ。

 というか、その内藤家のご子孫が、温泉津温泉の外湯のひとつ薬師湯の湯元のオーナーなのだとか。
 隣接するカフェの名が「震湯カフェ内蔵丞」という名であるのも、カフェに奉行めしというメニューがあるのも、そういった歴史に由来している。

 残念ながら沖泊管理運営拠点である城はどちらも「城跡」として残るのみながら、城敗れて温泉あり、名湯薬師湯は今後も末永く人々に愛されることだろう。

 毛利元就の時代以降銀の積み出し港として栄え、江戸時代以後も北回り船の避難港としてもにぎわいを見せていた沖泊も、石見銀山の構成要素として同じく世界遺産指定されている。

 が。

 往時に比べればトンネルの開通で遥かに便は良くなったとはいえ、今の世の中であえてここに暮らす意義と意味を求めるのは難しい。

 そのためかつて殷賑を極めていたであろう沖泊の集落は、まだ数軒が現役であるように見受けられたものの(実際に人もいたし車も停まっていた)、暮らしの場としての集落はすでに終焉を迎えつつあるように見える。

 入り江の奥にひっそりとたたずむ石州瓦の家並みは、遠目には美しいけれど……

 近づいて一軒一軒をよく観てみると……

 もはや居住不可能なほどに傷んでいる家屋がかなり多いことに気づく。

 木造家屋は、ヒトの営みが途絶えてしまうと、加速度的に朽ちていく。

 集落の間を通る小道を行くと、崩壊5秒前くらいの家屋すらあった。

 集落のところどころにある耕作地には野菜が植わっていて、人々の活動のあとは見受けられる。
 でもとてもじゃないけど「集落」という段階はすでに終了しているようにしか見えない。

 集落の最奥は、耕作地が山に戻っていく寸前…のような状態になっていた。

 トンネルが開通する以前は、この先に峠を越える道が続いていたのだろう。

 石見銀山の世界遺産登録に際し、温泉津温泉街とともに「石見銀山を構成する要素としてここ沖泊も「世界遺産」に含まれることとなった。

 でも。

 世界遺産登録というのは、現在そこで暮らす人々にとって何がどうなるものでもないらしい。

 街並みや景観というヒトの営みがかかわる価値は、そこで暮らす人々の努力なしには存在しえない。

 でもその景観を維持するための努力に対しては、誰も何も報わない。

 日本人の心の風景的に称賛される各地の棚田も、その美しさを褒め称えこそすれ、棚田を維持している人々が得ている努力の対価はといえば、苦労に苦労を、不便に不便を重ねて実る米の代金でしかないのだ。

 ただでさえ1次産業の後継者が不足している時代に、誰がわざわざ苦労して棚田で米作などしたいと思うだろう。

 棚田の景観的価値を大事とするなら、その景観を維持することへの対価も必要だ。

 それと同じで、街並みの景観を評価し、その維持のために様々な足枷を加えるのであれば、維持の努力への対価も用意しなければ。

 棚田については、現在は減反政策の瑕疵も含め、維持のために各地で様々な取り組みが検討・検証されているようだけれど、街並みの美観維持ということではどうなのだろう?

 世界遺産登録という名誉とは裏腹にこうして終焉を迎えつつある集落を目の当たりにすると、過疎化とひと口で片づけるわけにはいかないモンダイもはらんでいるように思えるのだった。

 集落は終焉間近に見えるのに対し、この地で長く海方面の神様として祀られ続けてきた恵比須様は、今もなお大事にされていた。

 出雲大社とは違い、ここも奥の本殿よりも手前の拝殿のほうが立派な、よくあるパターン。

 建築的には拝殿が江戸後期の作りなのに対し、本殿は屋根より下の作りが室町時代当時のものらしく、レア度では拝殿の様式どころではないらしい。

 …ということを知ったのはもちろん帰宅後のことで、大きい拝殿に目を奪われてしまうから、ついついこういうアングルで撮ってしまった。

 この恵比須神社、こういう鄙びた小さな港にありがちな、ちょっと適当に作りました的な社ではまったくなく、拝殿なんて本格ストロング派の作りだったので驚いた。

 それもそのはず。

 この拝殿こそ江戸後期に修理・造営されたものだそうだけど、神社自体の創建は1526年、石見銀山が銀山として復活した年のこと。
 あらゆる意味で神々の力も必要としたであろう当時、おろそかにテキトーな神社を設けるはずはなかった。

 この恵比須神社は、近年3ヶ年計画で解体&修理が行政により行われたそうで、古来より受け継がれている価値あるモノを大切にする姿勢がうかがえる。

 であるならば、美的景観を集落として維持するためのフォローも、行政がなんとかできないのだろうか。

 世界遺産の登録にむけての活動だけ躍起になって、登録されてしまえば放置プレイだなんてなぁ……。

 さてさて沖泊、銀の積み出し港として、北前船の避難港として多くの船が利用したということは何度も触れた。

 そんな多くの船がこの港に係留するにあたり、欠かせなかったものといえば、鼻ぐり岩。

 鼻ぐりとは牛の鼻輪のことだそうで、鼻輪を牛の鼻に通す要領で、岩に穿たれた穴に縄を通し、船を係留していたという。

 ここ沖泊周辺一帯は海底火山由来の凝灰岩堆積層らしく、沿岸一帯の岩はかなり加工しやすいのだろう。岩に穴を開けたり、岩をビット状に成型したりして、船の係留に利用していたのだ。

 鼻ぐりという本来の言葉の意味では、穴が開けられたモノ限定っぽいけれど、ビット状のモノも合わせて「鼻ぐり岩」と呼んでいるらしい。

 小なりとはいえ一応船を管理している者としては、いにしえのビットを是非見てみたい。

 入り江の奥にもひとつそれらしきものがあった。

 なるほど、穴が開いている。

 手元の温泉津散策マップ的観光地図には、鼻ぐり岩が入り江沿いにいくつもあるように記されている。

 しかしこの入り江沿いには、どこからどう行けばいいのだろう?

 港の周囲を見回してみたところ、港設備の片隅に、小川を渡って山の中に分け入る橋と階段があることに気がついた。

 お、この階段が入り江沿いへのルートかも。

 さっそく橋を渡り階段を登り……

 山に分け入り、道なき道をガシガシ進む。

 でも………あまりにも道なき道なんじゃね??

 それ以上行くと遭難しそうだったので、たとえこの道が正解であったとしても断念。
 来た道を戻ると、はたしてその道はまったくの誤りだったことがわかった。

 橋を渡るまでは良かったのだけど、そのあと階段には登らず、そのまま小川に沿って海へと歩いていけばよかったのだ。

 そこには、入り江沿いの「道ある道」がさらに先へ続いていた。

 途中、うっかり八兵衛だとズルズルと海に滑落しそうな危うい道が続く。

 すると眼下に、さっそく鼻ぐり岩が。

 さらに先へ行くと、ビット状の鼻ぐり岩が次々に現れてきた。

 鼻ぐり岩だらけである。

 それにしても、この沖泊という入り江の波静かなこと、美しいこと。

 同じくリアス式海岸で入り江が多い、五島列島福江島の風景にも似ている。

 さらに先には、小型ボートが2隻係留されていた。

 これほど波静かでかつ干満による潮位の差がほとんど無ければ、船の管理もさぞかし安心だろう。

 ……って、船に乗るときには、ここまでどうやって来ているのだろう?

 その都度、今我々が歩いてきた道のりを??

 身一つで来るならともかく、すっごく大変そうなんですけど……。

 2隻とも岩に打ちこまれたステンレスのリングを使って係留しているようだけど、しっかり鼻ぐり岩も現役だった。

 ビット状鼻ぐり岩の利用方法。

 壁になっている凝灰岩層の露頭は、表面に瘤状の塊がいくつもあって、なんだか昨年訪れた土佐の竜串のような雰囲気だ。

 でも砂岩堆積層の竜串とは違い、火山由来の堆積物だから、生痕化石などあるはずはない(ですよね?)。

 などと岩肌を眺めていたら、ひそかに沖泊の海タッチをしていたオタマサ。

 なにやら素っ頓狂な声を上げたかと思ったら、その手のひらには……

 小さなウニが。

 あまりにもたくさんいるので驚いたらしい。

 海中にはワカメ系の海藻がたくさんユラユラしているから、ウニにとっても天国なのだろう。 

 ところで、我々が歩いてきたルートや今いるこの棚状の地形は、地質用語で「波食台」と呼ばれているもので、凝灰岩が波に侵食されて形成されているそうな。

 台の幅の大小はあれど、それが岸壁としてまことに都合がよいために、船の接岸場所として利用されていたという。

 波食台には形成時代によってか高低差があり、船を係留するうえで程よい高さのところに鼻ぐり岩が密集しているようだ。 

 そんな波食台を歩いて、対岸の櫛島を見やると、反対側はたいそうな波しぶき。

 海上はそれなりに波高くなっているのだけれど、この日は北東の風だったから、沖泊は風浪とはまったく無縁なのである。

 歴史の果てにたどり着きつつある集落が哀しみを湛えている一方で、昔のままの姿をとどめている海。

 人々の儚き栄枯盛衰など、海にとっては湾外に今吹いている風同様、「どこ吹く風」なのだろう。

 沖泊をあとにし、再びトンネルを通って娑婆(?)に戻り道を歩いていると、素敵なデザインのマンホールがあった。

 往時はこのような船が何隻も行き来していたであろう沖泊、今はただ風が吹くのみ。 

 温泉津漁港からトンネルの入り口まで来た道は道幅の広い車道で、その道をそのまま行くと、やがて国道9号に達するようだ。

 国道9号といえば。

 子供の頃、若狭湾の高浜まで海水浴に行くのが我が家の夏の恒例行事で、まだ高槻から日本海へ出るに際して種々の自動車道など無かった当時は、亀岡経由で舞鶴に出て、そこから海沿いに福井県入りをしていたはず。

 その高槻から亀岡までのルートに、たしか国道9号が入っていたような記憶が……。

 調べてみると、国道9号は京都から山口までの山陰を縦貫する道で、すでに古代に整えられていた五畿七道のひとつ、山陰道であるらしい。

 なるほどなぁ、あの道は温泉津まで続いていたのか…。

 さすがに国道9号までは遠過ぎるので、やきものの里経由で温泉街に戻ることにした。

 石見銀山の銀の積み出し港として開けた温泉津は、江戸時代に入り、やきものも盛んに作られるようになったそうだ。

 温泉津は付近一帯で耐火度の高い陶土や釉薬が産出されるうえに、登り窯での焼成用の燃料としてもっぱら使われていた松もたくさんあるという、やきものには最適の土地なのだとか。

 はんどと呼ばれる水がめのほか、暮らしのなかの陶器が主な生産品だったそうで、最盛期にはこの地に十数基もの登り窯があったという。

 今では2基が残るのみという登り窯が、往時の面影を今に伝えてくれている。

 登り窯もやっぱり石州瓦。

 沖縄をはじめ登り窯は各地にあるけれど、こんなに煌びやかな登り窯も珍しんじゃなかろうか。

 今も現役のこの登り窯では、春と秋の年に2回開催されるやきもの祭りの一週間前に、窯に火を入れる様子を見学することができるそうな。

 ここに火が入って赤々と燃え盛り、煙がもうもうとたちこめたら、さぞかし迫力があるだろうなぁ…。

 このやきものの里にあるやきもの館では、こちらの窯元で作られている作品が展示・販売されている。

 記念にコーヒーカップでも買っていくとするか。 

 他に客がいるわけでもない静かな館内には、陶芸家の卵らしき若い女性が作品に柄入れをしているようだった。

 先にお手洗いを借りに入ったオタマサが、店の子がとっても愛想がよくてカワイイ!となぜだか興奮気味に話していたとおり、ステキな方だった。

 よく考えると、昨夕スクールバスから降りてきた小学生を除き、温泉津に来て初めて会う「若い女性」かも……(最終的に「唯一」だった…)。

 多少お話を伺ったところによると、同じ大田市は大田市でも、大田市街地に近いところから通っておられるのだとか。

 やっぱ、住むにはつらいのかなぁ。

 でも、たとえ住んでいるわけじゃなくとも、こういう土地で働く、ここに自分がやりたいことがあるって若者がいるってことを知っただけでも、なんだかうれしくなってしまった。

 彼女の作品もこのやきもの館にたくさん並ぶ日が来るよう、お土産に買ったカップでコーヒーを飲みながら応援しております。

 やきものの里をあとにし、曲がりくねる道をテケテケ行くと、ようやく温泉津温泉の裏口に戻ってきた。

 いったん宿に戻った後は、お待ちかね、いよいよ外湯探訪だ!