8・出雲散歩
人生初の出雲大社参拝を済ませた我々は、このあと海を目指すことにした。 出雲大社っていえば、なんだか随分内陸にあるように錯覚していたところ、意外なほど海に近く、15分ほども歩けばすぐに海辺にたどり着く。 旧暦の10月に全国津々浦々からお越しになる八百万の神々たちも、海から上陸(?)してくるそうで、到着された神々を出雲大社へと誘う道は、今もなお「神迎の道」と呼ばれている。 その道をたどってみるのもステキそうなのに、なにしろ散歩をしようとしていた時は知らなかったものだから、わかりやすい国道431号をたどって海まで歩いていくことにした。 ほどなく、道の先に海が見えてきた。
普段当たり前のように海のそばで暮らしているというのに、こうして海が見えてくるとやっぱり心がときめく。
この先の坂道を下っていくと、有名な海岸にたどり着く。 大歳社(おおとしのやしろ)というらしい。 いかにも最近きれいにしました的な作りながら、その由緒を見てしまえば……
田畑の守護神。 オタマサにスルーは許されない。 さっそくお参り。
葦原の中つ国を統べていた出雲神のみなさんは、このように農業の神様的な側面も多々ある。 ところで、出雲大社境内でもこのような末社でも、各社の案内板は、軒並みこのようになっていた。
時代でござんすねぇ……。 留守中の畑の無事をお願いしつつ大歳社をあとにし、引き続き国道を下っていくとたどりつくのが………
ご存知稲佐の浜。 出雲大社の海といえば稲佐の浜。 神在月に全国からやってくる神様方をお迎えするのがこの浜なのだそうだ。 海水浴シーズン以外は訪れる人とて疎らそうなこの浜で、旧暦の10月10日にはかがり火が焚かれ、神様をお迎えする神事がとり行われるという。 国譲り神話の舞台もこの浜だそうで、出雲地方の人々にとっては魂の原点とでもいうべき海岸なのである。
それを踏まえて渚に佇んでみると、寄せては返す波もなにやら悠久の時の流れのよう。 …と、こうして切り取った画面だとどこまでも続く白砂(グレーっぽかったけど)の海岸のように見えるのに、実はもっと南側では、大型重機が猛々しく海岸で工事をしていた。 この辺一帯の護岸再整備工事のようだ。 ああ、工事がこちら側まで及んでいなくてよかった……。 さてさて、稲佐の浜といえば……
弁天島。 出雲地方を宣伝するポスターや旅行パンフなどでは、欠かすことのできないビジュアルスポットである。 神仏習合の時代はここに弁財天が祀られていたためにこの名があるそうな。 ちゃんと今も天辺チョイ下に祠がある。
ただし明治になって神仏が分離されたあとは豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られるようになったため、弁天さんは名前だけが残っている。 この弁天島、大昔は海岸線から遥か沖にあったことから、かつては沖ノ御前、沖ノ島とも呼ばれていたそうなのだけど、次第次第に湾に砂が堆積していき、昭和の末くらいになると、かろうじて「島」状態だったという。 それからさらに砂が増え、ついに波打ち際が島の背後にまで後退してしまって現在に至っているそうだ。 じゃあ島じゃないじゃん、弁天島……。 どこの海でも起こっている海岸の砂の増減は、その理由のほとんどが人工物の構築による。 ここ稲佐の浜も北側を見渡せば、大きな港(大社築港)が。
稲佐の浜は湾状になっているし流入する川はあるしで、ただでさえ砂は溜まりやすいだろうに、そのうえ巨大人工物で砂の逃げ場が無くなれば、そりゃ溜まる一方になるだろう。 それはさておき、真冬らしからぬ穏やかな表情を湛える日本海にタッチ。 そして、やがては陸の孤島になってしまうかもしれない弁天島を、チョビ島であるうちに眺めておこう。
ところで。 この砂浜にしばらくいて、わりとつぶさに浜の真砂を眺めていたにもかかわらず、まったく気がつかなかったことが。 これ。
素鵞社の縁の下に盛られてあった砂、これはなんと稲佐の浜の砂だったのだ。 まったく気づかなかった我々に、宿の女将さんが後刻教えてくださったのだった。 それはやはりパワースポット話で、帰宅後もう少し詳しい話を調べてみたところ、 まずは稲佐の浜の砂を取りに行く!
すると ということらしい。
となると、先に素鵞社に行って、そのあと稲佐の浜に来ている我々は、まったく真逆のコースをたどってしまったことになる。 全然興味なし。 そうはいっても、縁の下にあんだけ砂が盛られているってことは、けっこうな人々が砂を運んでおるわけですなぁ……。 パワースポット文化、恐るべし。 水納島の桟橋脇に溜まった砂も、どんどん持ち帰ったら運気100倍シアワセ一杯金運招来出前迅速落書無用、待ち人来りて失せ物出ずるスーパーパワースポット伝説を作り、年間7万人くらいくるお客さんに少しずつ持って帰ってもらえば、たちまち問題は解決するかも。 < 無理だと思います。 ちなみに、昭和の初めころの稲佐の浜は完全に漁村の浜辺で、砂浜にズラリと小舟が並んでいる写真が残っている。 しかも戦前は弁天島のすぐそばに桟橋を設け、そこに観光連絡船が出入りできるようになっていたのだ。 稲佐の浜は神々が上陸してくる場所ではあっても、周辺の人々の生活に密着した浜でもあったのである。 砂を持って帰るのもいいけれど、そのあたりの歴史にもちゃんと触れておいたほうが良さそうな気がするのだった。 |