9・出雲散歩・2

 さて、この稲佐の浜を海岸沿いに少し北上してから住宅地のほうに入ると、民家の合間に唐突に出現するのがこちら。

 屏風岩。

 一見何の変哲もない岩の露頭のようにしか見えないけれど、何を隠そう国譲りに際しての神々の談判は、この屏風岩を背にして行われたのである(とここでは伝えられている)。

 国譲りにまつわるストーリーも登場人物も神話ごとにバラエティがあるため(たとえ同じ人物でも名前やキャラが異なったりする)、誰が何をしてどうなったとひと口に言うのもややこしいのだけれど、とにかくこちらの説明板によると、この屏風岩を背にして高天の原から派遣された使者・タケミカヅチノカミが大国主神と国譲りの話し合いをしたそうな。

 国譲り神話が本当は歴史上の何かを神話の形に変えて語っているのか、ということについてはさておいて、稲佐の浜が国譲りの舞台で、なおかつ話し合いをしたのがこの岩の前って話が伝わっているってことは、大昔の海岸線は少なくともこの岩のすぐ手前だったってことなんだろう。

 ちなみに、パワースポットを求めて稲佐の浜と素鵞社を行き来する観光客は多けれど、この屏風岩をひと目見ようというヒトはかなり少ない模様……。

 この屏風岩から再び国道431号に戻るに際し、スージィグヮーをそのまま行くことにした。

 するとほどなく、出雲大社の末社、下の宮にたどり着く。

 この小さな祠、ご祭神はなんと天照大神。

 天皇家の祖であり伊勢神宮がとてつもない規模で祀っている日本が誇る太陽神天照大神が、出雲ではこんなちっぽけな祠に……。

 稲佐の浜から出雲大社を目指す神々を真っ先に出迎える…という大切なお役目は、なるほど神様中の神様っぽく見えるけれど、それにしたって「下の宮」ですからね……。

 ここから少し出雲大社に近づいた側にあるのが上の宮。

 ご祭神は、素戔嗚尊と八百万の神。

 ……って、つまり神様全員ってことじゃん。

 それもそのはず、この上の宮こそが、神在月で神様たちが大集合しているときに、神様会議(神議り)をする場所なのだそうだ。

 にしても、姉である天照大神を下に置き、八百万の神々の筆頭にドドンと立つ素戔嗚尊。

 葦原中つ国の出雲神、ここにあり!ってなところか。

 この上の宮からさらにテケテケ行くと、行きにお参りした大歳社にたどりついて、再び国道431号に出た。

 国道はバス路線でもあるようで、バス停があったから時刻表を覗いてみると……

 うーむ……これではバスで生活できなさそう。

 廃線になってないだけ一畑バスえらいッ!ってところなのだろうけど、ライフラインにするにはつらいなぁ…。 

 引き続き国道を歩いていると、右手にある墓地に、とある有名な方のお墓があるという看板が出ていた。

 そのお墓とは……

 出雲の阿国さん。

 歌舞伎の祖として名を馳せている、安土桃山時代きっての超有名芸能人である。

 彼女の郷土出雲の地では、あちこちで像や肖像画を目にする。

 しかし安土桃山時代を描くドラマなり小説なりでチョコチョコ出てくることが多い出雲の阿国さん、歌舞伎の祖だということは知っているけれど、いったいぜんたいなんで「出雲」の阿国で、出雲の人なのだとしたらなんで京都まで出張ってきていたのだろう?

 …なんてことをまったく知らないままこの齢になってしまった。

 せっかくなのでこの機会に、お墓のそばで説明されている阿国さんの生涯を拝読してみた。

 それによると、出雲の地に生まれた阿国さんはなんと出雲大社の巫女になった方で、出雲大社の修理費用を捻出する勧進のために諸国を回って芸能興行をしていて、それが各地で評判になっていったのだそうな。

 芸能の祖出雲の阿国の今に伝えられる活躍にも、出雲大社が一枚かんでいたとは。

 その後京の都で活躍している間に秀吉や家康などの有力者の前でも芸を披露するほどの人となった阿国さんも、晩年の消息はハッキリしておらず、こちらのお墓も、客観的には「出雲の阿国の墓といわれている」くらいの信憑性らしい。

 とはいえ今もなお芸能方面の方がお参りにくるなど、歌舞伎の祖、芸能の祖という意味では、いまだ現役の阿国さんなのである。

 再び国道431号を歩いていると、左に行けば神楽殿になる場所まで戻ってきた。

 そこを右に行くと……

 大きな国道からたった一筋入るだけで、なんとも趣のある道路に。

 この道はお宮通りと呼ばれているところで、昔の参道なのだそうだ。

 現在の表参道、すなわち神門通りは、旧大社駅が開設されたあとにできたものだそうで、江戸の昔のみなさんはこの道を通って出雲大社に参拝していたという。

 だからこその味わい深い旧街道っぽい風情が残っているわけか。

 ちなみにこのあたりの地名は……

 …杵築(きずき)という地名。

 それもそのはず、出雲大社が出雲大社と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのことで、江戸時代中頃くらいまでは杵築大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていたのだ。

 この地名はその頃の名残りなのだろう。

 旧参道らしく趣のある通りの家々には、一軒ごとになんともオツな飾り付けが施されている。

 草花が活けられた竹製の一輪挿しのようなものが、このようにさりげなく格子窓の下や軒先に飾られていた。

 たまに造花もあったけれど、さりげなく目に優しいこの飾り。

 これはこのあたりのみなさんの、出雲大社参拝客へのおもてなしの心なのだそうである。

 一輪挿しとして利用されている竹筒は、この門前町あたりの風習である「潮くみ」に使用されたものなのだとか。

 潮くみとは、朝早くに稲佐の浜で潮をくみ、出雲大社などを参拝後に自宅に持ち帰って、この水で身辺を浄めるための習わしだそうで、月の始まりや凶事のお祓いの際におこなうものだという。

 そんな風習を後世に伝えるべく、現在は地域住民でつくる「神迎の道の会」がガイド役になって、毎月1日に潮くみを体験する街歩きが行われているそうである。

 潮くみ、似たようでありながら、縁結びパワー用砂持ち帰り儀式とは、ひと味もふた味も違う……と思うのは気のせいでしょうか。