本編・7

He's late.

 解いた旅装を再び元に戻し、発つ鳥あとを濁さぬようにしてロビーに向かった。
 9時前である。
 約束のピックアップの時刻9時15分までには充分すぎるほどの余裕がある。

 チェックアウトをすべくフロントに行くと、驚いたことに昨夜までは普通のおっさんだったフロントマンは、とってもかわいい小柄な金髪女の子に変身していた。寝ている間に魔法でもかけられたのだろうか。
 魔法ならそのまま解かずに女の子でいてもらいたい。

 チェックアウトを頼むと、そのフロント少女はレシートは必要かと訊ねてくれた。レシートも何も、バウチャー以外にはなんの費用もかかっていないので必要ないのだが、こういうときは受け取るのが普通なのかもしれない。わかんないけど「イエス」と答えた。

 その作業をしようとしてくれたフロント少女は、なんだか困っているようだった。どうやらバウチャーの場合、領収書をどうやって書いたらいいのかわかんないらしい。
 たしかに、旅行社に我々が支払っている料金と、ホテルが旅行社から受け取る料金とは異なってしかるべきなんだから、その場合に僕にどの金額を示せばいいのか微妙であるに違いない。
 もともと必要ではなかったので、いいよいいよ、レシートはなくていいです、というと、彼女は救われたように笑顔になって、アイムソーリーと答えてくれた。
 どうだ、僕は美女の窮地を救ったのだ。
 あ、窮地を作ったのも僕か……。
 帰りもここに泊まるので、彼女には「また5日後に会おう」と言ってクルリと身を翻し、颯爽とフロントを去ったのだった。

 約束の時間までまだまだ15分あった。
 ロビーでくつろぐことにしよう。

 5分前になった。
 まぁ、こういうところで5分前行動をするとは思えないからなぁ。

 ジャストになった。
 うすうす感づいてはいたが、アラスカというのは、時間通りになんでもかんでもやってしまうような、そんな息の詰まるようなところではないのだろう。

 15分が過ぎた。
 ま、こんなもんかな。そろそろ来るだろう。

 9時45分になった。
 ウーム。さすがに心配になる。
 この送迎は、ベテルスで滞在することになるロッジの担当になっていた。そこ用のバウチャーには、
 「9:15 
pick up
 と書かれてある。が、いったいなんという会社の誰がどこからやってくるのか皆目わからない。
 今さらながらその事実に気づいたものの、これではいったいどこに問い合わせればいいのかわからない。仕方がないので、玄関にある公衆電話でベテルスロッジに電話してみることにした。

 この電話の使用方法が、いまいちわかんないんだよなぁ……。
 コインを入れて何度かけても、機械のメッセージで何事かを告げてくるのである。なにやら、コインを入れやがれ、って言っているような気がするんだが、コインは入れてるぞこのヤロー。機会が相手じゃ、「パードン?」って言ったって何事も変わらないし…。
 いざとなれば昨夜のタクシー・サルタンを呼ぼうと思ったら、もらったはずの名刺をどこかに落っことしてしまっていた。

 さすがにこのままじゃ埒が明かないので、さきほどのフロント少女を頼ることにした。
 5日後に会おうといって格好よく去ったのに、あっという間に戻ってきてしまった。しかも、助けておねーさん、って。
 彼女に事情を説明するのは大変だったが、ピックアップ予定の時刻が本当は9時15分であることは説明できた。すでに40分くらい過ぎている事を知った彼女は、まるで映画の1シーンのような顔をして驚いた。
 ハリウッド映画を見ていると、なんだか随分オーバーアクトっぽく見えるシーンはしょっちゅうある。でも実際にアメリカ人ていうのは、ジム・キャリーは別として、普段の生活がああいう感じなのであるな…
 などと、己の事態とはまったく関係のない思考をしていると、どこかに問い合わせの電話をしてくれていた彼女が教えてくれた。
 「He’s late
.
 は?
 彼って、彼って誰のことなんだよぉ!!!

 とにかく誰かがlateであるらしい。で、我々はいったいどうしたらいいのだ。
 するとフロント少女は、とっても親切に説明をしてくれ………るのだが、早口で何を言ってんだかわかりゃしない。
 「たのむ、もう少しゆっくり喋って…」
 というと、おー、ごめんごめんといって、ゆっくり話してくれ………るのだが、だんだんスピードが増してきて、最後にはすっかり元の速さに戻っている。
 君は不慣れな三線演奏者か!!

 英語圏から出て生活をしたことがないアメリカ人たちにとっては、英語を話せない人たちがいったい自分の話す言葉のどの部分をどう理解できないのかなんてことはまったくわからないのだろう。
 我々からすれば、もう少しわかりやすい幼児が使うような単語を使うとか、図で示しながらとか、いろいろやりようがあると思うのだが、そもそもどこをどうわかるようにすればいいのかがわかっていないのだから、そんな工夫ができるはずがない。
 日本人なら、外人に日本語を教えていると、いつのまにか自分までたどたどしい日本語になって喋っているってことが往々にしてある。彼らアメリカ人は絶対と言っていいほどそのようにはならないだろう。精神におけるアイデンティティの持ち方が根本的に異なっているに違いない。

 ああ、そんなことを言っている場合ではなかった。
 彼女の懸命な説明によると、どうやらフライトは午後1時になったようだ。で、我々はこれからタクシーで空港に行き、そこで待って、ということらしい。
 午後1時なら時間はたっぷりある。しかし、空港のどこに行ってどこから来る誰を待てばいいのだ?まったく雲をつかむような話であった。
 タクシーはフロント少女が手配してくれた。ホテルが契約している空港シャトルなので、僕らが支払う必要はなかった。あとあと気づいたのだが、これでは、本当はベテルスロッジが受け持っていたはずの送迎の費用を、このホテルが支払ったってことになるんじゃないのかなぁ……?
 ま、アラスカだからいいのだろう。
 このノリは、なんだか日本の南にある地方と似ている………。

 タクシーがやってきた。
 とっても頼りになるフロント少女にお礼をいい、チップを渡した。チップを渡そうとしたら、握手と勘違いした彼女はシェイクハンドのポーズで差し出してきた。男性から女性に握手を求めるのはマナーに反するらしいけれど、この場合は彼女の勘違いなのだからいいのだろう。せっかくだから、固い握手を交わしておいた。
 アルマジロに初タッチとか、カピバラに初タッチとかで喜んでいる僕にとって、これはアラスカ女性への記念すべき初タッチになったのだった。<あ、そこのおじさん、ヘンな誤解はしないように。

Wright Air Service

 フロント少女がタクシー用に用意してくれたバウチャーカードの行き先欄には、Wright Airと書かれてあった。どうやら、ベテルスまでの飛行機はこの会社であるらしい。
 はたして、これがもともとの予定通りの航空会社なのであろうか。ベテルスロッジは、ベテルスエアーという自前の航空会社を持っていたのではなかったっけ??もしかして、全然見当違いのところに行ってしまったりして……。
 などと、未踏の土地での未体験ゾーンは霧の彼方に浮かぶ明かりのように頼りない。一度経験すればすべてがなんてことはないことになるんだろうけど………。

 タクシーで我々がたどり着いたのは、フェアバンクス空港の片隅にあるライトエアサービスの建物だった。空港ターミナルのどこにいればピックアップしてもらえるのだろうかと不安だったけど、ようするに水納海運の待合所、もしくは券売所のような小さな建物がその会社で、そこで待っているだけで事足りるわけである。
 午後1時のフライトなのに時刻はまだ午前11時半ごろだ。フェアバンクスの水納海運事務所には客の姿はなかった。
 さっそくカウンターに行った。
 さっきのフロント少女も美しかったが、何人かいるこのカウンターの女性のうち、我々の対応をしてくれた女性はメグ・ライアンをちょっとポッチャリさせたような健康的で陽気な女性だった。
 こういう節目節目で美しい女性に出会うと、なんだかとっても得したような気分になるから不思議だ。おそらくそれは、僕よりもうちの奥さんのほうが濃厚に感じていたに違いない。

 で、チェックインをしてもらおうとしたところ、フロント少女が電話で話をつけていてくれたのか、それともそもそもそういう予定だったのか、何かの用紙に名前を書くとか身元をチェックするとか、な〜んにもしないまま機内預け荷物と手荷物、そして体重を量り、チェックインは終わってしまった。チケット一つ渡されない。
 いいのか、それで……。

 なんともはや、広大なアラスかにおける軽飛行機便というのは、どうやら水納島へ渡るために水納丸に乗るようなものであるらしい。
 我々としては、はたしてこの飛行機に乗るには新たに支払いが必要なのか、本来乗る予定だった航空会社なのか、我々をホテルでピックアップする予定だった人には話がついているのか、いろんな知りたいことがあった。しかしメグ・ライアンは、
 「ん?ん?何言っているの、いいのよそんなこと。大丈夫大丈夫」
 という様子。僕らは何がなんだかさっぱりわかんないのだった。

 客の姿がない待合所には、大きなソファがいくつもあった。そこで読書しながら飛行機を待つことにした。傍らにコーヒーマシンがあったものの、食べ物はどこにもない。前夜の残り物とはいえ、朝しっかり食べておいてよかった……。

 ソファでくつろぎつつ、ときおり窓の外の景色を見てみる。
 雪に埋もれた飛行場には、色とりどりの小さなプロペラ機が、雪に埋もれつつもまるで宜野湾マリーナに繋留されている船のようにたくさんたくさん並んでいた。