本編・8

勝利の女神

 各種?マーク要素のせいで他のことに捉われている間がなかったのは幸いだったが、ここにきてようやく事態は収拾し、徐々に、だが確実に不安感が増していくのだった。
 また飛行機に乗るのだ…………。
 小さい飛行機のほうがどちらかというとでっかい飛行機よりも生理的に受け入れられるとはいえ、この極寒の地で単発エンジンだものなぁ……。

 広大なアラスカの、険しい険しい山間部や陸路ではとても行けないような土地を、縦横無尽に飛び回るこれら飛行機のパイロットたちのことを、ここではブッシュパイロットと呼ぶらしい。
 そんじょそこらのヘナチョコパイロットではとうてい勤められないらしく、彼らは選りすぐりのベテランパイロットであるという。フロンティアスピリットとアドベンチャー精神とが作り出した職業といえるかもしれない。人々はパイロットたちに敬意を払い、名誉を与える。

 それほどまでの実力者なのだから、ここは僕も深く敬意を払い、大船に乗ったつもりで小さな飛行機に乗り込むことにしよう。

 そんなことに思いを馳せつつ、まだまだ午後1時までには時間があるなぁと思っていると、待合所に昨夜の運ちゃんサルタンが入ってきた。客を送ってきたらしい。
 「おはようございまーす。飛行機はまだですね?」
 僕らの顔を見るなりそういう彼に、
 「実はサルタン、昨日もらった名刺を……」
 「落としましたねぇ」
 彼のタクシーの中で落としていたようだった。なんと失礼なことをしてしまったのだ。
 すまないがもう一枚、というと、彼は快く名刺をくれた。フェアバンクスに戻ってきたら、きっと彼を呼ぶことにしよう。

 しばらくすると、カウンターに日本人がやってきた。
 久しぶりに見る日本人だった。
 どういうわけか知らないけれど、海外旅行をしていて、自分がいるところに日本人観光客がいると、
 「なんだこのヤロ…」
 という敵意を向けてしまうのはなぜだろう?英語もろくに話せず、満足に意思疎通ができない世界にいて心細く思っているくせに、なぜかしら同じ場にいる日本人には一歩ひいてしまうのだ。

 このときもそうだった。
 現れた二人は女性だったが、なんとなく旅慣れているように見える。彼女たちも同じ飛行機に乗って同じところへ行くのだろうか。いいなぁ、チキショー、英語を喋って……。
 そうこうするうちに、一緒に現れた二人のうち片方の女性は、もう片方の女性に挨拶をして、その場を去っていった。察するところ、現地在住の方で、友人をここまで送ってきたってところだろう。

 ひょっとしたら同宿の縁になるかもしれないにもかかわらず、海外旅行中に沸きあがる正体不明のライバル心(?)のせいで、我々は彼女と言葉を交わすでもなく読書の世界に入っていった。そのころにはポテトフライを食っている子供や電話をしている大人などなど、待合所にはいろんな老若男女が集っていたから、さして不自然な沈黙でもなかったのだ。

 旅のお供に持ってきたのは、、長編小説千里眼シリーズであった。往復50時間近くを移動に費やすことを思えば、重いだろうが大量の本は欠かせない。知人にいただいた未読の本である千里眼がシリーズ本だったので、これ幸いとばかりに選んだ次第。
 ところがこれ、読めば読むほどどんどん腹が立ってくる。
 防衛大学を出て自衛隊に入隊、というのはまだいい。
 カウンセラーの道に進んで3年、というのもいい。
 しかし28という年齢でその履歴であるなら、実質自衛隊の現場にいたのは3年ほどってことじゃないか。3年でこんなマスターキートンを遥かに凌駕するスーパーウーマンになるわけないだろう!!
 それが漫画やアニメ、映画というならまだわかる。なんでこれが「ミステリー小説」としてそんなに売れているのかさっぱりわからない。

 と、文句をいいつつ読んでいると、いつの間にか目の前に先ほどの女性が立っていた。
 ん?
 突然彼女は言葉を発した。
 「あのぉ、ウエさんですか?」
 ん?
 もしかしてあなたは岬美由紀?千里眼の持ち主なのか??
 いや、マジでビックリした。僕の視線が左上を泳いでいたり、指先がモジモジしていたことによって名前がわかってしまったのか!?
 「はぁ、ウエですけど…」
 「あのぉ、私、ベテルスロッジで今日からまたしばらく働くことになっているヒサといいます」
 ん?
 ん??
 オーッ!?

 そうだったのである。
 彼女はこれから我々が滞在するロッジのスタッフだったのだ。
 すでに夏も冬も何シーズンかスタッフとして過ごしたそうで、今年は年末年始の繁忙期に手伝って、またしばらくフェアバンクスにいて、そして再び3月末までロッジに滞在するという。そういえば、参考にしたいくつかの旅行記サイトのなかに、ヒサさんという名がいくつかあったっけ…。

 日本人スタッフがいるかもしれないしいないかもしれないという話は聞いていたが、まさか自分たちが乗る飛行機で一緒に行くことになろうとは。
 彼女によると、今日の飛行機が1時であるというのは昨日の時点で知っていたそうで、その際に我々夫婦も乗ることになるから案内よろしく、と伝えられていたそうである。冒頭僕の名前をウエデと間違えたのは彼女ではなく、彼女にそう伝えた、日本人の名字に不慣れな誰かのせいであろう。
 名前はともかく…。
 昨日の時点から今日の飛行機は午後1時って決まってたんじゃないか!!
 いったい、フロント少女が教えてくれたHe’s lateってのは、誰が何をどう遅れたのだろうか……。

 
 もはやそんなことはどうでもいい。
 これまで、何をするにも避けては通れない英会話に全身全霊を使って疲労困憊していた僕にとって、そしてもちろんオタマサにとっても、目の前のヒサさんはまさに旅行を勝利に導く女神に見えた。
 彼女に対して得体の知れぬライバル光線を放っていたつい先刻のことなどはツンドラの彼方に吹き飛ばし、美しくも若い勝利の女神の出現というこのうえない行幸を、どこにいるのかわからない神にただただ感謝した。

 この勝利の女神の出現によって、それまで?マークで埋められていた我々の脳みそには、ヒサさんの説明というサプリメントが洪水のように入ってくるようになった。
 我々の旅行の前途は、少年少女の輝ける未来のように、明るくきらめく希望の光に満ち始めた。

 ……きらめいていたのは、我々の旅行の前途だけではなかったらしい。
 前夜フェアバンクスでオーロラウォッチングをしていたというヒサさんによると、昨夜2時ごろ、フェアバンクスの空には、何度もオーロラを見ているという彼女でさえ
 すごかった……
 というほどの、見事に活発なオーロラが出現したそうである。
 「見ましたか?」
 オーロラのように目を輝かせてそう問う彼女に僕たちはどう答えればいいのだろう……。
 「いえ……食いすぎてホテルで寝てました」

 清く正しく生きてはいても、正直な答えが、時にはとても恥ずかしいこともある………。