本編・22

犬もチビる興奮のドッグスレッド

 明けて……明けきってないけど、1月24日。
 今朝もいつもどおり10時頃に目覚めると、部屋の窓の景色もまた、いつもどおり淡く美しい朝焼けだった。すでに見慣れた風景でさえある。

 「慣れ」とは恐ろしい。
 あれほど願っていたはずなのに、連日の快晴がいつしか当たり前のこととなっていた。
 

 そんな天候を深く神に感謝するでもなく、今朝もオレンジジュースを飲み、美味しい朝食をいただく。ロッジの窓から見えるブルックス山脈は、今日もポォッと頬を薄紅色に染めている。

 朝食後、今日のうれしいオマケの予定を聞いた。
 午後からドッグスレッドだという。
 犬ゾリである。
 これも、村へのドライブ同様ロッジのパックツアーに含まれているものである。本当は昨日やる予定のようなことを言われていたのだが、あまりに寒かったからか都合がつかなかったのか、今日に変更されていた。
 事情はともかく、昨日やっていれば我々は寒さで悶死していただろう。

 そもそもこの犬ぞりは、僕ももちろんやってみたかったが、うちの奥さんのアラスカ旅行での重要なテーマのひとつでもあった。まぁ、「バナナで釘」程度の。
 バナナで釘はともかく、いったいなんで犬ぞりに……?
 「動物のお医者さん」という漫画のせいである。
 北海道の大学で獣医をめざす若者が主人公の漫画である。その中で犬ぞりレースをする話があったのだが、その犬たちの、
 「俺はやるぜ!」「俺はやるぜ!」
 というやる気180パーセントの描写を、うちの奥さんはいたく気に入っていたのである。
 そんな犬たちを見てみたい、犬たちを取り扱ってみたい……
 今回のアラスカ旅行を企画中に犬ぞりができるかもしれないということを知ると、彼女はにわかに目を輝かせ、犬ぞり、犬ぞりと呪文のように唱え始めた。

 けれど、それがロッジのパックツアーに含まれているのかどうか、ハッキリしたことは知らなかったので、実際にできるのかどうかはこのロッジに来るまで知らずにいた。
 その後、初日に会ったタケウチさんからも、一昨日やったコービィさんからも体験談を聞くにおよび、犬ぞりにかける期待はいやおうなく高まっていった。

 ピートによると、今日の犬ぞりは午後2時からだということだった。15分前にロッジに集合ということに。
 待ちに待った犬ぞりがついに……。
 万全な体調で臨まねばならない。
 昨日、散歩とアワレンジャーのせいで疲労の極に達していた僕を見かねてくれたうちの奥さんは、犬ぞりの時間までのんびり過ごすことに同意してくれた。

 昼食はとらないようにしていたので、12時前にロッジに戻り、のんびり読書などしてはいたものの、うちの奥さんは
 犬ぞり、犬ぞり……
 と、まるでソリを引く犬のように異常な高ぶりに見舞われているようだった。大丈夫なんだろうか……。

 時間通りロッジに行き、暖かい紅茶を飲みながら待っていると、ピートが現れこういった。
 「今日の犬ぞりは3時からになった」
 フフフ。驚かないぜ。
 それどころか、今日は中止になった、ってことも覚悟していたのだ。1時間ずれることくらいなんてことはない。ここでは。

 ひとまず部屋に戻り、ちょこっと表でお酒でも飲むことにした。
 コップに注いだカナダの猟師とムースの干し肉を手に、オーロラロッジの玄関にある階段に座ってみた。午後の日差しはあくまでも穏やかに雪の世界を祝福している。
 静かだ……。
 この地にはたしかに他に人がいるはずなんだけど、まるでこの世界に僕たち二人だけしかいないかのような静寂。風もなく音もなく、ただただそこには照り映えて輝く極北の風景があるだけだった。
 こんなところで飲んでしまえば、たとえ下戸でも酒の美味さに酔いしれることだろう。
 というか、そんなところで昼間から飲んでていいのか……。

 ときおり人が歩く姿が遠くに見えた。
 顔すら判別できないほど遠くなのに、彼のはくシャカパンのシャカシャカパフパフする音だけが響く。
 世界はそれほど静かだった。
 写真家・星野道夫は、カリブーを求めて広大なアラスカで点になって待っていたという。
 我々は、犬ゾリを待つ間、広大なアラスカで点々になって酒を飲んでいた…。

 3時前になり、今度は4時になったりして、と言いつつ再びロッジに行ってみると、 
 やってきたピートは、はたして
 「さあ、行こう!」
 と元気に告げた。

 ピートの赤い4駆に乗せてもらい、ドッグスレッドの犬舎へ。
 ものすごい犬の数!!
 聞けば、44頭いるのだとか。
 すべてがハスキー犬なのではなく、そのへんにいる普通の犬っぽいのも何頭かいた。
 ここの主はマックスというナイスガイだ。
 行きの飛行機でコ・パイロットの席にいた人も郵便局で会った人も、みんな同じように見える。この地に住む人はみんなこうなるのだろうか……?
 実は本当に同じ人なのだった。

 ドッグスレッドの御者、操縦者のことを、マッシャーという。
 冒険野郎にとっては、ブッシュパイロット同様に誉れ高き職業である。
 犬ゾリはもともとは生活必需品的移動手段だが、スノーマシンの台頭によってその座から年々追われている。その一方で、各種競技が行われるスポーツになっていたりする。
 日本ではあまり縁がないためか、北海道の一部を除いて熱心な人は少ないけれど、本場アラスカやカナダでは、まるでヨットのアメリカズカップ、車のパリ・ダカールラリーなみに、誰もが注目するレースがある。
 2月に行われるカナダメインのユーコン・クエストと、3月に行われるアラスカのアイディタロッドレースだ。
 どちらも厳冬の極北の世界を、犬ぞりだけで2週間近くも旅する長距離レースである。パリ・ダカのように途中に中継点が何箇所も設けられているとはいえ、文字通り生命にかかわる過酷なレース。
 いったい何を好きこのんで……
 と思う人たちには、きっと彼らに栄誉を与えることはできないだろう。
 しかし、極北の地の人々は、誰もが彼らの勇気を讃え、その技術に拍手を送るのである。
 そこには名誉がある。

 我々が参加するドッグスレッド・ツアーとは、つまりマックスが操縦するソリに「乗せてもらう」という形になる。ただし乳母車のようなところに乗っているだけではつまらないので、ソリを2連にし、前方にマッシャー、後方にゲストが乗るわけだ。
 でも我々は二人連れである。だからといってソリを3連というわけにはいかない。
 必然的に、一人は乳母車席になるのだった。
 ピートを交えてマックスと一通り挨拶を済ませたあとの、
 「SATO、君がマッシャー席だ」
 というピートの言葉の意味がその時はわからなかったけど、つまりはそういうことだった。すなわち、うちの奥さんが乳母車席に。ま、あとで代わってやることにしよう。

 マックスは、今回の犬ぞりツアーを走るべき犬たちを選んでいた。
 ホントだ、犬たちは誰も彼もがやる気をみなぎらせている……。
 ワンワン!(俺を選べ!)
 ワンワン!(いいや、俺だ!)
 ワンワン!(俺はやるぜ!)
 犬たちはまさにあの漫画のように口々にアピールしていた。
 そしてマックスに選び出された犬たちは、我が意を得たりとばかりにさらにやる気モードになっていく。選出にもれた犬たちは、恨めしそうにクルクル回る。
 人間3人を引っ張る犬は10頭だった。それらを結わえていくマックス。
 みんなやる気満々なので、彼らを抑えるブレーキが必要だ。フリッツ・フォン・エリックのアイアンクローも真っ青の、でっかい鍵爪状の金属が大地にグサッと突き刺してあった。

 ようやく犬たちの準備が整ったようだった。
 さて、犬たちの操縦はマックスがやるとして、2連のソリの1台に僕一人で乗るわけだから、何かソリ操縦方法の説明でもあるのかな、と思っていたら、
 「用意はいいかい?」
 え?え?
 なのに
 「オーケー!!」
 元気に答えてしまう僕。全然オーケーじゃないんですけど……。

 マックスがアイアンクローを抜くと、犬たちは猛然とダッシュを開始した!

 これが速いなんの!!
 ソリの幅程度の細い細い道を、ものすごい速さで進んでいく!!
 平らな道なのかと思いきや、片時も地面と平行になれないようなでこぼこ道。マジでこけるんじゃないかと思った。
 が、このソリというのは左右のスキー板がそれぞれ独立してサスペンションがわりに動くのか、でこぼこだからといってソリ全体が傾くことはなく、バランスをとれば転倒することはない。見よう見まねながら、マックスの様子を見て学習した。
 だから特に問題はなかったのだが、やおらマックスは何かを思い出したかのようにソリを停めた。
 前方2mほどのところで急に止まるものだから、僕の乗ったソリはそのままスルスルスルとすべり、マックス・うちの奥さんコンビのソリにぶつかった。

 「いいかい、ソリのブレーキはここにあるから、こうやって足で踏むんだぜ」
 そう言って自分のソリへ戻ったマックスは、
 「用意はいいかい?」
 と訊いてきた。いったん停まったのは、まさか今ごろブレーキのことを教えるためだったのか?
 絡まった犬たちの縄を元に戻すためだったらしいんだけど……はたして……。

 犬たちはマッシャーに制止されるまで、とことんどこまでも走ろうとする。体がどうなろうととにかく走ろうとするので、走るがままにしておくと肩やどこかを痛めてしまうらしい。
 そのためマッシャーは、ときおりブレーキでスピードを調節して、犬を冷静にさせるという。
 だから道中ブレーキはしばしばかけるから、ブレーキの操作を知っておかないと前方のソリと調子を合わせられないというわけである。

 最初は力いっぱい持ち手を握り、渾身の力で立っていたものの、だんだん勝手がわかるにつれて余裕が出てきた。マックスがときおり振り返っては
 「大丈夫かい?」
 と訊いてくれる。そのたびに、片手でグッドサインを出せるようになった。そうなれば足もとのブレーキを踏むのも軽やかになる。

 そうこうするうちに大きな道に出た。
 大きな起伏を越えて直角に交差する道に出るものだから、いったんソリを停めて向きの修正をする。すると犬たちは、何を思ったのか興奮しているのか、もと来た道を戻ろうとまたダッシュする。
 これこれ…
 といいつつ制御するマックス。アイアンクローを剥がして突き進もうとする犬たちを鎮め、なんとかコースに戻していた。犬たちはとにかく走りたいのだ。
 コースの半分のところでうちの奥さんと交代してやろうと思っていたので、マックスにここは半分のところかと訊くと、彼は大きくかぶりを振り、まだまだ先だよ、といった。
 うちの奥さんはといえば、乳母車席で心地良さそうにしていた。

 さて、態勢を整え直し、出発進行!!

 道が広くなり、起伏も少なくなってくると、犬ぞりがいかに静かな乗り物であるかがわかってくる。
 あたりには、
 シュルシュルシュルシュル………
 という、ソリがすべる音しかない。
 夕陽を浴びる森の中を、静かに走る犬ゾリ………。
 とてつもなく贅沢な時間を過ごしていることを、今さらながら実感した。
 スノーマシンが犬ゾリに取って代わっているけれど、この静けさはマシンには求められない。マシンがどれだけ速かろうと、犬ゾリのほうがいいなぁ…。
 というようなことを、あとで冬期よろず雑用係ラッソルが言った。
 僕も大いにうなずいた。

 夕焼けと呼ぶにはあまりにも淡く穏やかな暖色の空を木々の向こうに見つつ、狐の足跡や雷鳥が羽ばたくのを見たりしながら、ソリはやがて折り返し点に到達した。
 うちの奥さんと攻守交替だ。
 乳母車席に座るのはなんとなく気恥ずかしかった。
 でも、さきほどまでときおり振り返りながらいろいろ教えてくれマックスの言葉は、ここだととっても聞きやすかった。
 残照を浴びて山々が色づくことを
 アルペングローというのだ
 ということを教えてもらったのはこのときである。
 アルピングローとしか聞こえないその言葉がALPINEのことだと気づくまでに時間を要したけど……。

 また、飛行機から見て以来ずっと気になっていたアラスカの大地を覆うハリハリ細細の木は、
 ブラックスプルース
 という名であることも教えてくれた。あとで調べるとスプルースという名は日本でも通っているし、それがトウヒであることもわかった。昨年北海道で見たエゾマツの親戚である。星野道夫の本にちょくちょく出てくる「トウヒの森」とはこの木々たちのことだった。
 アラスカの大地にはこのトウヒとバーチと呼ばれる木々しかないかのごとくそれらの森が続く。どちらも建築資材、木工資材として広く知られている木々でもある。広く知られているということは、大量に伐採されているということでもあるのだろう。

 このトウヒ、あまり大きくないので全部若い木々なのかと思っていた。
 なかでも人の背丈くらいのものもあって、その木々の間を進んでいたとき、マックスは
 「これは若いヤツだ」
 といった。一方、もう少し大きいヤツ、すなわちそこらじゅうでみる普通サイズの森になると、
 「あれはオールドだ」
 という。
 いったいどれくらいオールドなのかというと、なんと80歳という。
 僕はしつこく、18ではないのか?本当に80か、と訊いた。
 本当に80歳だということだった。

 ティーンとティの発音も難しかったが、中学英語を自分で言うのも難しかった。
 マックスに冗談で
 「後ろの彼女を助けてやってね」
 と言ったのだが、何度言っても訊き返されるのである。挙句の果てには
 「すまない、聞き取れない……」と言われてしまった。
 いったい何が聞き取れないのだろう……。
 ハタと思いあたり、
 「彼女」のherを、ハーではなくちゃんと英語のherと発音したら、一発で通じた。
 英語ってムツカシイ………。

 犬たちは黙々とソリを引っ張り続けている。
 ときおり、尻を下げては何かをしている。
 よく見るとクソを垂れているのだった。
 なんと彼らは走りながらウンコしているのだ!!
 さっきからときおりプ〜ンと匂っていたのは、ソリがホヤホヤのクソの上を通過していたからだった。

 そういう犬たちのキャラをマックスは教えてくれる。
 あいつは働き者だ、彼はコイツの息子だ、若いけどしっかりものだ、コイツは怠け者、彼は励ましてやるとやる気を出すタイプだ、エトセトラ……。
 メスもいるのかどうか訊ねると、あれとあれがメスだ、と教えてくれた。彼の持つ犬のうち全体の15パーセントほどがメスだそうである。
 メスのほうがよっぽどハードワーカーだという。
 人間と同じだね、というと、
 「その通りだ!」
 といってマックスは笑った。

 また、仕事は何をしているのだ、と尋ねるので、ダイビングの仕事をしていることをいうと、マックスは面白い話をしてくれた。
 「ダイビングとアラスカの冬は似ているんだよ」
 「え?なんでなんで?」
 すると彼は背後から僕のオーバージャケットをつまみ、
 「器材が無いと死んでしまうだろう?」
 なるほど…。

 軽いジョークだったのかもしれないが、けっこう深く考えさせられる話だった。
 おそらく、冬のアラスカで何事かをやろうと思う人は、
 「下手をしたら死ぬ……」
 という意識を持っているだろう。たとえツアーであったとしても、少なくとも、防寒をしっかりしなかったらどうなるかということくらいは考える。
 一方、我々の業界はどうだろうか。
 レジャーとしてダイビングを楽しんでいる人たちは、
 「器材が無いと死んでしまう……」
 という意識のもとに遊んでいるだろうか。もちろんそれくらいは誰でもわかる。でも、覚悟の上では……。
 アドベンチャーをレジャーに変えた時から、ダイビング業界は飛躍的に産業として延びたけれど、それと同時に失っていったものは、今さら取り返すことはできないに違いない。

 ウーム、極北の地で考えるダイビング業界……。
 そうこうするうちに、ソリは細い道へとコースターンした……と思ったら、後ろでうちの奥さんがこけた。
 フフフ、俺はそこで転ばなかったぜ…。

 一瞬で彼女は起き上がり、再びソリがゆく。

 そして、マックスの犬舎へ戻ってきた。
 俺はやったぜ、やりきったぜ!
 そんな犬たちの満足げな顔を見ながら、小一時間ほどの素敵な犬ゾリツアーが終わった。

 一仕事を終えた犬たちは、さっきまであれほど血気盛んだったくせに、すっかり人懐っこい犬に戻っていた。さっきからクソひり走りを繰り返していた犬はコールドフットという名前らしい。
 オーよしよし、よく頑張ったなぁ……。
 漫画のようにマッシャーになってソリを操縦することはできなかったけれど、寒さのあまりまたしてもまつ毛が植村直己になりつつも、うちの奥さんはとっても満足しているようだった。
 ついでに子犬も見せてもらった。
 パピーのことを日本語でコイヌというのだ、ということをマックスは知っていた。
 ハスキーのコイヌは全部で8頭いた。来年の今ごろは彼らもソリを引いていることだろう。

 ラッシャー木村でもマッド・マックスでもないマッシャー・マックスが、はたしてマッシャー界でどんな人なのかは知らない。けれど、僕らにとっては誰よりも素晴らしいマッシャーだった。
 欧米人ダイバーは、ダイビングを終えると、その1本がどのようなダイビングであれ、とにかく
 「ファンスティック!」
 「グッド!!」
 「エクセレント!!」
 「ナイスダイブ!!」
 などとヨロコビを口にする。
 今このときの我々にこそ、まさにそれらの単語が必要だ。
 僕たちの気持ちの底のほうからほとばしる感激の言葉でもあった。

 犬舎には、冬期よろず雑用係ラッソルが迎えに来てくれていた。
 マックスに深謝して、犬舎をあとにした。